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三十六、届け

「見えたぞ……懐かしいな、土御門邸だ」  かつて生活し、学び、働いた古巣を視界に捉え、猿之助はにぃと笑った。霧の結界のお陰で、ここまで誰にも邪魔されずに近づくことが出来た。  土御門邸の裏手にある竹林の中に、猿之助はいる。  手綱を引いて馬から降りると、夜顔の両脇に手を差し込んで地面に下ろした。  夜顔はあたりを見回して、誰かを探しているかのような行動をしている。猿之助はそれには構わず、夜顔の前に立って歩き出す。 「来い、夜顔」 「……とうのすけ」 「藤之助は後で来る。それまではこっちで仕事だ」 「……」  夜顔はゆっくりと猿之助についてくる。それをちらりと確認すると、土御門邸付近に先に来ていた部下、佐々木守清(もりきよ)に合流する。 「どうだ」 「仕掛けました」 「よし」  猿之助は夜顔の前に屈み込むと、印を結んで結界術を解いた。  ぶわり……と夜顔の周りの空気が歪み、その禍々しい妖気が放たれる。背後にいた守清が、一歩後ずさる音が聞こえた。 「夜顔、藤之助に会いたいか」 「……とうのすけ」 「それならば、ここにいる人間すべて、殺してこい」 「ころす……」  猿之助は竹林の隙間から垣間見える、土御門邸の土塀を指さした。夜顔はそちらを振り返ると、ぼんやりとそれを眺めている。 「よし、やるぞ」  猿之助が手印を結ぶ動きに倣い、守清も同じ構えをした。そして、声を合わせ詠唱する。 「劫火風雷(ごうからいふう)!急急如律令!」  激しい轟音と共に、土御門邸の土塀が火を吹いて爆発した。ばらばらと土煙が立ち上り、爆発と共に屋敷を護る強固な結界術が破れる。禍々しいものを退けるための、強力な結界が。  結界が破れ、夜顔がふらりふらりと土御門邸に入り込んだ。その後に猿之助と守清も続く。  中にいた陰陽師たちが、ばらばらと裏門の方へと集まってくる気配がした。猿之助は楽しげに目を細めると、夜顔の背を叩く。 「こいつらだ、殺せ」 「……ころす……ころす、ころすころすころすころすぅぅぅ…………!!!」  夜顔の表情が一変する。ぼんやりとしていた目を見開き、目にも留まらぬ疾さで陰陽師たちに向かって行った。  霧の中から突如現れた子どもに狙いを定められたその男は、驚きのあまり動けなかったようだ。小さな身体に黒い炎を纏わせ、獣じみた動きで男に飛びかかり、喉笛に食らいつく。悲鳴を上げながらその場に倒れた男を押さえつけ、とどめを刺すように腹を抉って内腑を引きずり出す。  その血を浴びた夜顔は徐々に呼吸を荒くすると、ぎらぎらと黒い光を双眸に湛え、次の獲物をその目に捉えた。 「あ……こいつが……」  狙われた男は、その子どもが夜顔だと知った。しかしそれと同時に、この男もまた首を飛ばされ絶命してしまった。   首が飛ばされたというのに、尚も身体は起立して、首から夥しい血が吹き出す。その血を雨のように浴びながら、夜顔は咆哮を上げた。 「おおおおおお!」  猿之助は高笑いをしながら、土御門邸の中をずんずんと進んでいく。土煙の中に現れる影という影を、夜顔は全て切り裂いて進んだ。 「ははは!いいぞ夜顔!よし、もっと中へ進もうか!」  悲鳴、怒号、柔らかな肉の感触、生暖かい血に濡れる指、生臭い臓腑の臭い……それら全てが、夜顔の中に流れる禍々しいものを呼び覚ます供物のようであった。  夜顔が吼えるたび、悲鳴が起きて血飛沫が飛び散る。  そんな光景を、猿之助は満足気な目付きで眺めていた。  あちこちから爆音が響き、部下たちが土御門邸へ攻め入ってくる気配を感じ取ると、猿之助の笑みは更に愉しげなものへと変貌してゆく。  ✿  裏庭から離れの屋敷を過ぎ、雅な庭と本邸が見えてきた。霧が濃く立ち込める不気味な暗さの中を、三人は迷うことなく進んでゆく。 「縛道雷牢(ばくどうらいろう)!急急如律令!」  闇の中、鋭い声が響いた。金色の光で組み上がったかのような牢獄が地中から生え、猿之助たちを取り囲む。そして仕上げとばかりに巨大な南京錠が浮かび上がり、がちゃんと重たい金属音が響いた。  風が生まれ、一瞬晴れた霧の中、猿之助の視線の先に業平の姿が浮かび上がる。そしてその傍らに跪き、手印を結んだ佐為の姿も。  猿之助はにたりと笑った。 「佐為、力を隠していたな。やはり間者だったか」  佐為は猿之助を見据え、何も答えない。業平と猿之助の視線が交わり、二人はしばし互いの姿を睨みつけていた。 「久しぶりだな、猿之助」 「業平、随分と偉くなったようだな」 「お前が随分と道を誤ってくれたものだから、私がしっかりとその道を正しているところだ」 「道を誤ったのがどちらなのか、今夜ここで分からせてやる。夜顔、あいつを殺せ」  夜顔はじっと業平に焦点を結ぶ。その黒い闇の渦巻く瞳を見た業平は、ぞっとしたように固唾を呑んだ。  ――これが、夜顔……。 「……ぅぅうううう!!」  夜顔が術でできた光の檻を、両手で掴んだ。じゅう……と肉の焦げる臭いと共に、夜顔の唸り声が響く。  夜顔の身体から、黒炎の妖気がうねりを上げて燃え上がった刹那、光の牢獄は一瞬にして霧散した。 「うわ……!」  夜顔の妖気を直に食らった守清は、牢が消えると同時に尻餅をついて倒れこんでしまう。猿之助はすぐさま身を護る結界壁を張っていたため、何事もなかったかのように楽しげに高笑いをしていた。 「業平!死ね!」  猿之助の声を合図に、夜顔が業平に飛びかかる。佐為が業平の前に立ち塞がろうとしたその瞬間、白い影がその前に割って入った。  夜顔の両手を宝刀で防ぎながら、千珠が業平と佐為の前に立ちはだかっている。  千珠と夜顔の視線が、再びぶつかり合う。千珠は自らの妖力を一気に解放すると、夜顔にその力を見せつけた。  夜顔は危険を察したらしく、ぱっと身を引いて千珠から離れると、広い庭の中の中程まで後退した。  千珠はじっと夜顔から目を逸らさずに、じりじりと摺り足で間合いを図る。 「業平殿、猿之助を」  業平と佐為を夜顔から庇うように移動しながら、千珠はそう言った。 「任せておきなさい」  千珠と背中合わせのように立つ業平と佐為。各々の視線の先には夜顔と猿之助の姿があった。  夜顔が、ぶわりと千珠に飛びかかる。その動きではだけた喉元に、千珠の耳飾りが赤く光っているのが見えた。  それを認めると、千珠は懐から一枚の札を出して構えた。 「おおおおおおお!!!」  夜顔の身体を取り巻く黒い妖気が、千珠に向かって襲いかかってくる。千珠は衝撃に備えるように膝を曲げると、飛び掛ってくる夜顔を見据えて細く息を吐いた。  そして身体と身体が触れ合う瞬間、その札を夜顔の腹に向かって押しこむように貼りつける。 「舜海!」 「氷牢結晶!急急如律令!」  千珠の声を追うように、舜海の術が夜顔を襲う。びきびきと、夜顔の身体を氷が固め覆っていく。  胴体と腕を氷に絡め取られた夜顔は、どさりとその場に倒れこんだ。暴れれば暴れるほど、その氷の範囲は広げて夜顔の身体を硬く包み込んでゆく。  千珠は夜顔に駆け寄ると、細っこい首元に刃を当てたまま、胸ぐらを掴んで顔を寄せた。 「聞け!俺はお前を殺さない!藤之助と一緒に逃す!」 「ああああああ!!」  今の夜顔には、千珠の声など届かぬようだ。夜顔が暴れもがく度に度に、氷がびきびきと細かい亀裂を生む。千珠は夜顔の頬を、ぱしんと打った。  夜顔の目が自分に焦点を結ぶのを見ると、千珠はもう一度言った。 「藤之助と逃げるんだ!お前は死なない、もう誰も殺さない!」 「……とうのすけ……」 「そうだ、藤之助と生き延びろ!だから今は……」 「ああああああ!!!」  夜顔は口唇が裂けるほどに叫び、氷を一瞬にして粉砕して戒めを解いた。一度頂点まで達してしまった夜顔の力は、留まるところを知らず溢れ出す。  千珠は思わず身を引いた。夜顔の黒き妖気は、その周りの空気を歪めるほどにまで熱く燃え滾り、夜顔の姿を揺らめかせていた。  そして、ぎらんとした闇い瞳があからさまな敵意を持って、千珠を見据えている。 「……す……ころす……」 「くそ……!言葉じゃ通じないのか!?」  千珠は宝刀を構えると、目を閉じて自分の妖気も高めていく。千珠の身からは青白い光が生まれ、竜巻のような風が沸き起こった。  霧を吹き飛ばし、千珠の長い銀髪を巻き上げる風が、夜顔の炎を打ち消さんとばかりに暴れまわる。それでも夜顔の表情は微動だにしない。  千珠が目を開くと、琥珀色は血の赤に変化(へんげ)し、獣のように瞳孔が裂けた。 「舜海!縛れ!」 「おう!千年鎖!急急如律令!!」  夜顔の背後に回っていた舜海の身体から霊力がかぎろい立ち、その手から生まれた金色の鎖が夜顔を縛り上げた。 「ううううう!!」  夜顔がもがくと、鎖が身体に食い込み血が吹き出す。そんなことに頓着する様子もなく、夜顔は気が狂ったように目茶苦茶に暴れた。  千珠はもう一度夜顔と間合いを詰めると、左手で夜顔の幼い首を締め上げた。 「か……はっ……!」 「鎮まれ、お前を傷つけたくはないんだ!聞け!」 「……ううううう、ころす、ころす、ころす、ころす、ころす……!!!」  夜顔の目が一層大きく見開かれ、千珠の赤い瞳をじっと睨みつける。  その刹那、千珠は腹の中から夜顔の中に吸い込まれていくような感覚を覚えていた。  激しい目眩。  まるで巨大な地震におそわれたかのような感覚。  身体の平衡感覚が全て失われるような……。  はっと目を開けると、そこは真っ暗な闇の中。  夜顔の幻術だ。 「……そう来なくては」  千珠はにやりと笑うと、幻術の中で立ち上がる。以前と同じように、暗闇の中にぽつんと佇むのは夜顔の姿。  そしてその姿が、あの時と同じく千珠の幼い頃に変化し始める。 「お前が俺の心を盗めるのなら、お前の心に俺が入り込むことだってできるだろう」  夜顔へ聞こえるように、千珠は声高にそう言った。そして幼い我が身の幻影に向って、鉤爪を振りかざして斬りかかった。  鉤爪が引き裂いた箇所から、どろんと黒い泥のようなものが流れ出す。幼い千珠の顔が苦痛に歪み、醜くぼろぼろと崩れてゆく。その崩れつつ逃げてゆく黒い物体目がけて、千珠は思い切り宝刀を突き立てた。 「読め!俺の心を!」 「ぎゃああああ!!」  夜顔の悲鳴が、霧の中にこだまする。  ――届いてくれ……!!

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