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四十七、離れがたい

 だらりと荷物のように舜海に抱えられている千珠は、ぴくりとも動かずに眠り込んでいる。  舜海はため息を吐いて千珠を両腕に抱え直すと、足で障子を開き、敷きっぱなしだった蒲団に千珠を横たえた。 「……うーん……」  肌をほんのり赤く染めて寝乱れている千珠は、いつも以上に色香を漂わせているように見えた。しかし舜海は首を振って、触れたい衝動を抑え込む。 「宇月のやつ、俺にこんな苦行を……」  舜海はぶつくさとそう呟くと、何か掛け物はないかと視線を巡らせる。すると、千珠がぴくりと身じろぎし、目を開いた。 「……うぅ……気持ち悪い……」 「えっ、吐くんか」  もぞもぞとうつぶせになろうともがいている千珠に手を貸して、その背中をさすってやる。  千珠は苦しげに息をしながら、当帯を解いて狩衣を取り、単姿になった。それで少し楽になったのか、ふうと深く息を吐き、ごしごしと目をこすっている。そこで千珠は、初めて舜海の存在に気づいたかのように目を瞬いた。 「……あれ?」 「あれ?ちゃうわ。この酔っぱらいが」 「……うーん……」  千珠は眠たげに目をこすると、今度はいきなり舜海に抱きついてきた。その不意打ちに、舜海は咄嗟に後手で身体を支えたものの、結局尻餅をついてしまう。 「いってっ! ったく今日はどいつもこいつも……」 「舜……」 「なんや」 「舜……舜……」 「だから何やねん」  千珠はうわ言のように舜海の名を呟いた。自分の胸に顔をうずめて動かないでいる千珠を見下ろす。 「……寝言か?」  千珠はむくりと顔を上げると、無防備な舜海の唇に食らいついてきた。甘い酒の匂いが、舜海の鼻をくすぐった。 「んっ……」  その身体を押し返そうとしたが、出来なかった。震える空いた左手で、千珠の背中を抱く。  ようやく唇を解放されたものの、千珠は潤んだ瞳で舜海を見つめている。その目つきも、唾液で艶やかに光る薄く開いた唇も、可愛くてたまらない。このままいつものように押し倒して、千珠の全てを味わい尽くしてしまいたい。  しかし、舜海は奥歯を噛んで耐え忍ぶ。 「……やっぱり、お前が一番美味だな」 「……そら、どうも」 「もっと……欲しいな」 「うわ!」  千珠は舜海をそのまま後ろに押し倒すと、今までになく積極的に舜海の唇に吸い付いてきた。  絹糸のように柔らかな銀髪が、自分の顔に振りかかるくすぐったさに煽られて、ついつい舌を絡めたくなる。しかし、舜海は理性を奪われまいと必死に、必死に耐えた。 「……こら、千珠! やめろ」 「何で……」  肩をぐいと突き放し、舜海はなんとか上半身を起こしたものの、目の前にある千珠の顔がひどく悲しげだったものだから、今度は急に焦ってしまう。 「えっ。どうした?」 「……もう俺を抱かないのか」 「あ……ああ、そうや」 「……俺が求めても?」 「……その必要はなくなったやろ」  途端に、千珠の目から涙がこぼれた。後から後から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。今夜の千珠の行動には、いちいち驚いてばかりだ。 「何で泣くねん」  指で頬を拭ってやりながら、舜海は穏やかにそう尋ねた。千珠は酔っているせいか、泣いているせいか、顔を赤く染めてしくしくと泣き続けている。 「分からないけど……何だか泣けてくる」 「何やそれ」 「分からないよ」 「……全く」  泣いている千珠を放っておけるはずもなく、舜海は仕方なく千珠を抱き寄せた。千珠は舜海の黒装束をぎゅっと握りしめて、声を殺して肩を振るわせていた。 「都を救った英雄の千珠さまはどこへ行ったんや」  冗談めかしてそう言うと、千珠は舜海の胸の中で首を振り、くぐもった涙声を出す。 「……俺はそんないいもんじゃない。一人じゃ何も出来なかった」 「それでいいねん。そうやって、人は人と生きていくんやから」 「うん……」  千珠は顔を上げ、うるうると揺らめく潤んだ瞳でじっと舜海を見上げてくる。自分を求めているとはっきり分かるその眼差しに、舜海は胸を鷲掴みにされるようで切なかった。しかし敢えて、笑顔を見せる。 「何でそんな顔してんねん。明日は俺ら、一緒に青葉へ帰るんやで?」 「うん……。でも……もうこんなこと、できないんだろう? こんなに近くに寄れないんだろ?」 「……まぁ、な」 「いやだ……舜海、俺……いやだよ」 「え?」  酔っ払って素直になっているのか、千珠は駄々をこねるようにそんな事を言い始める。舜海は困り果てたが、それと同じくらいに嬉しくもあった。 「それでいいって、言ってたやないか」 「……いやだ。やっぱり、いやだ」 「千珠、大丈夫や。お前が困ったときは、ちゃんと手ぇ貸したるから。そんな、不安がらんでも大丈夫やで」  舜海は子どもに言い聞かせるように、穏やかに優しくそう言って、笑ってみせる。 「うん……そうかな……」 「ああ、大丈夫やって」  千珠はその言葉を聞いて、少し表情を和らげた。ほっとしたのか、再び眠たそうに目を瞬かせた千珠は、脱力して舜海の胸に崩れ落ちる。  その身体を今度こそ蒲団に横たえると、掛け物をそっと胸の上に置いてやる。桃色の頬をして眠る千珠の頭を、舜海はそっと撫でた。 「困った奴」  舜海は身を屈め、千珠の唇に唇を重ねた。  柔らかく、温かい、感じ慣れたこの感触。  愛おしい。狂おしいほどに。  可憐な寝顔を目に焼き付けよう。これからはやすやすと触れることの叶わぬ白磁の如き美しい肌の感触を、しっかりとその手に記憶させよう。舜海は優しく、優しく千珠の頬を撫でた。 「……愛してる」  堪えきれず、口から零れ落ちた愛の囁きを、眠る千珠の唇の中へと忍ばせるように、舜海はもう一度静かな口付けを落とした。  音となったその言葉は、想像していたよりも呆気なく、しんとした春夜風の中へと消えてゆく。  しかし音となったその響きは、想像していたよりもずっとずっと甘く、切ない痛みを伴って、舜海の胸を締め付けた。 「千珠……」  何度も何度も、想いを込めて呼んだその名。宝のような、美しき名をそっと囁く。  舜海はしばし千珠の寝顔を見つめていたが、想いを振り切るよう立ち上がり、足早に離れを後にした。

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