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一、葉月のこと

   朝餉を取る気にはならなず、千珠はのろのろと道着に着替えて道場へ向かっていた。  今が盛りとばかりに夏を謳歌する蝉たちの声が響く中、板張りのひんやりとした廊下を歩く。今日は雨でも降るのだろうか、やや湿り気のある空気がもったりとその場に留まり、何だか息がしにくかった。  ふと、背後に気配。 「おはようございます、千珠さま」  耳に心地よい柔らかな声だ。振り返ると、そこにはいつもと変わらぬ笑顔の宇月がいた。  真夏だというのに黒装束に見を包み、女らしさなど微塵も感じさせぬような地味な身なりをしている。少し伸びた髪も、せっかくなのだから下ろして見せて欲しいのに、無造作に項の上あたりで結っている。  しかし、そんな宇月の飾らない顔を見ていると、なんとなく心が落ち着いた。  ふと、宇月が眉を寄せる。 「一体どうしたのでござんすか。ひどい顔色でござんすよ」 「……どうもない」  千珠はぼそっとそう言うと、ぐいぐいと目を拳でこすった。 「昨日の晩は、暑くて寝苦しかっただけだ」 「三日三晩寝なくても平気な千珠さまが、一晩寝ないくらいでどうやったらそんな顔になるのでござんすか」 「……」  宇月は腕組みをして、じっと下から千珠を見上げている。言い逃れのできない宇月の眼差しに、少しばかり照れてしまう。 「……嫌な夢を見たんだ」 「夢でござんすか?」 「……いや、いい。今は思い出したくない」  千珠は首を振って、指先で目頭を押さえた。宇月の顔が、心配そうに歪む。 「話せるようなら、また教えて下さいませ。何か手助けができるやもしれないでござんす」 「うん。……まぁ、お前が一緒に寝てくれるんなら、こんな夢見ないかもな」  千珠はそんな事を言いながら宇月を見遣ると、宇月は一瞬きょとんとした。そしてみるみるうちに顔が茹で上がってゆく。 「もう!またそんなおふざけをおっしゃって!」  一瞬で怒り顔になる宇月を見て,千珠は力なく笑った。そして、肩をすくめると「冗談だよ」と、意地悪くにやりと唇をつり上げる。 「もう、知らないでござんす!」  宇月は怒って、どすどすと足音も喧しく去って行ってしまった。  千珠はそんな宇月の背中を見て苦笑し、誰にともなく呟く。 「あながち冗談でもないんだけどな……」  空を仰ぐと、千珠の心とは裏腹に、深い青がどこまでも冴えざえと澄み渡っている。山の端にかかる入道雲が、天高く背伸びしてゆく様が見え、千珠は確かに雨の匂いを嗅ぎ取った。   季節は葉月。  透き通るような夏空に燦然と輝く太陽が、何もかもを明るく照らし、自然は今が盛りと萌え輝いている。  夜顔事件から一つ季節がめぐった、真夏の出来事である。  ❀  今日は三津國城内の道場にて、剣術指南の仕事の日であった。  しかし千珠は、浮かない顔を乗せて上座にじっとあぐらをかき、竹刀を振るう男たちを見るともなく眺めていた。  取り敢えず素振り二千本という理不尽な命令を、汗水流して必死でこなす門下生たちは、苦悶の表情を浮かべ、歯を食いしばりながら竹刀を振るっている。  そこへのっそりと現れた舜海が、異様なまでにむわっと立ち籠める男臭さにぎょっとして、目を瞬かせている。窓や戸が開いていても、この炎天下の中で二十数名の男たちがぜぃぜぃ言いながら竹刀を振り回しているのだから、たまったものではない。  舜海は手近にいた若い男の肩を叩いて、「おい、何してんねん」と尋ねる。  若い男は顔を真赤にしながら大汗をかき、はひゅーはひゅーと肩で息をしながらこう言った。 「千珠さまが……素振りに、二千……本……とおっしゃったので……」 「はぁ?何を無茶苦茶な」  舜海は呆れて上座を見遣ると、人形のようにぴくりとも動かない千珠を見て眉を寄せ、そちらへ歩み寄った。 「おい!どないな注文してんねん。おい!お前らもうええから、ちょっと休め!」  舜海の張りのある声が道場に響くと、どさどさとそこここで門下生たちが倒れこんだ。よろよろと水を飲みに行く者や、風を求めて道場を出ていく者もいる。  それでも尚動かない千珠の耳元で、舜海は怒鳴った。 「おいこら!目ぇ開けたまま寝んな!!」 「うわ!」  突然のことに、千珠は飛び上がった。そして、反射的に拳を固めると、目にも留まらぬ速さで舜海に殴りかかる。 「うお!!」  何とか紙一重でそれを避けた舜海は、後ろに両手をついて耐えた。思い切り振り切った千珠の拳は、どごんと大きな音を立てて、道場の壁に大穴を開けてしまった。 「……何だお前か」 「何だちゃうわ!何やってんねんお前!」  千珠は拳を壁から引き抜くと、ぱらぱらと落ちる土くれを手で払う。そして、じろりと舜海を見た。 「お前がいきなり大声出すからだろ」 「いきなりちゃうやん、さっきから声かけてたやろ。ったく……こんなことで穴開けんなや。怒られんのは俺やねんで」 「ふん、知るか」  千珠はぷいとそっぽを向き、舜海のこめかみに青筋が浮かんだ。 「ぼうっとして、どうしたんや。夏ばてか」 「俺はそんなやわじゃない」  つん、とそっぽを向いたままの千珠に、舜海は不機嫌そうに目を細めた。 「心配してやってんのに、何やその態度は。やんのかこら、おぉ?」 「何だよ、喧嘩売ってんのか」 「はぁ?上等や、やったろうやないか」  睨み合う二人の間に、門下生の一人が割って入った。 「まぁまぁ……押さえてくださいお二人とも……」  千珠は、自分よりも年若い門下生の困った顔を見てはっとする。気づけば、門下生たちが興味津々といった目つきで二人の成り行きを見物しているのだ。  千珠は咳払いをした。 「……あ、すまん。今日はもう、終わりにしよう。ぼんやりして悪かったな」  千珠は門下生たちに、素直に謝罪した。すると皆の顔がにわかに曇り、それぞれ顔を見合わせては囁きあう。 「千珠さまが謝られたぞ……おかしいな」 「やはりどこか体の具合が悪いんじゃ……」 「不吉だ、何や不吉だ」 「明日は嵐か……」  ぶつぶつとそんな事を言い合われ、千珠はむっとして頬を膨らませ、 「五月蝿い五月蝿い。もういいから、とっとと帰れ!」と、喚いた。  怒り始めた千珠を見るや、門下生たちは逆に安心したように笑い合い、帰り支度を始めた。 「良かった、普通だ」 「そうだな、あれなら元気そうだ」 「しかしまぁ、今日もきれいだな……」  そんなつぶやきが漏れ聞こえる中、門下生たちは千珠に一礼をして道場を出ていった。     道場に人気がなくなり、がらんとした空間に舜海と二人になると、千珠は大きくため息を吐いた。 「はぁ……酷い言われようだ」 「まぁ、昔は我儘やったもんな、お前も」 「我儘っていうな。人間の秩序ってもんが分からなかっただけだ」 「へいへい……」  二人は日陰になった道場の縁側に出ると、しばらくそこで風を感じながら休んだ。千珠は目を閉じて壁に寄りかかり、結い上げた銀髪を風に揺らしている。舜海はそんな千珠の横顔を見て、ふと気づいたように口を開いた。 「その目の下のくま……」 「え?ああ……ちょっと寝付けなくて」 「一晩寝ぇへんくらいでお前がくまなんか作るか。夜顔の気、うまいこと抑えれてないやろ」 「……たまには鋭いことを言うな」 「やかましい」  自分の方に向き直った舜海を見て、千珠はぷいと反対側を向いた。千珠に背を向けられた舜海はむっとしたように鼻を鳴らすと、その肩をぐいと後ろに引いて、自分の膝の上に千珠を引き倒した。 「わっ」  舜海の膝に頭を載せる格好になった千珠は、じっと自分を見下ろす舜海の目を見上げた。舜海の顔が逆さに見える。 「妖力が落ちてるな。あ、そうか今日は満月……」  満月の一夜、千珠は妖力を全て失うのである。その日は夜顔の妖気を抑える力も極端に失われるため、いつも身体が辛くなってしまうのだ。  舜海に気を高めてもらえば、きっとそれはすぐに収まるのだろうが、千珠はそうしようとはしなかった。  あの日、都で舜海に言われたこと。  もう身体の交わりをやめようと言われ、千珠はそれに同意した。その言葉を、律儀に守っているのだ。それに一旦触れ合えば、きっとまた歯止めが効かなくなることも、薄々お互い分かっていた。    それは、宇月への恋心とも関係が深い。このまま舜海に甘えていては、一人の男として自立できない。宇月に認められることも、守ってやることもできない……そう思っているからだ。  しかし宇月のことを好きだと想う気持ちは募るばかりで、不器用な千珠はそこから先へと何も進展させることが出来ていない。そんなもどかしい日々の中、悪夢を見ては身体を蝕まれ、千珠は相当に疲弊していた。  満月の夜は、舜海が修行に出ていた二年間と同じく、宇月と柊との三人で夜通し起きている。舜海は、そこに交じろうとはしない。青葉に帰ってからというもの、二人は近付くことも目を合わせることも、避けているのだった。  だから久しぶりに身体を触れ合わせる舜海に、千珠はやや緊張していた。  ひたむきに自分を見つめる、というよりもくまを観察する舜海の真っ直ぐな目が、途方もなく眩しい。  千珠はこれ以上舜海のそばにいるのがいたたまれなくなり、ぱっと起き上がるとごしごしと目をこすった。 「こんなもん……。明日になれば消える」 「まぁ、そうやろうけどな。いつもより酷い気がする」 「……」  ぎくりとする。  自分でもそう思っていたところだった。いつになく重たい身体といい、いつにも増して現実味を帯びて見えたあの夢といい……。  今でも気を抜けば、そこに死体が見えるようだ。  千珠はうつむいた。 「戦の時の俺……覚えてるか?」 「戦……ああ。覚えてるで」 「俺、どんな顔してた?」 「顔?」  千珠はじっと舜海を見た。その悲しげな表情に、舜海は目を瞬く。 「せやな……お前は、いつも辛そうな顔してたな」 「……そうか」 「まだ子どもやったのにな。険しい顔して、血に濡れながら泣いてる時もあったよな」  ふと、その時の記憶と、夜顔の涙が千珠の脳裏に浮かんだ。そして、夢の中で、血を求めて残忍に笑う自分の顔も。 「俺、笑ってたか?」 「いや、笑ってるところなんか見たことなかった。いつも、お前は能面みたいな顔してたっけな」 「……ふうん、そうか」  舜海は、ぽんと千珠の頭に手を置いた。そして、いつもの様に豪気に笑ってみせる。 「そう思えば、お前はええ顔になったな。ええ男になった」 「そうかな」 「ああ、そうや。まぁ、俺には劣るがな」  舜海はそう言って、千珠の髪をぐしゃぐしゃと乱す。 「やめろよ。柊といい、宇月といい、皆で俺を子ども扱いしやがって」  千珠は煩そうに舜海の手を払って、縁側からひょいと庭に跳んだ。結っていた髪をほどいて頭を振ると、真夏の日差しを受けて、千珠の髪はきらきらと美しくきらめく。  こちらを振り向いた千珠の顔は、銀色の光を纏って、なんとも言えず美しかった。大人びた容貌になりつつある千珠の伸びやかな美貌に、目を奪われてしまう。  千珠は少しすっきりとした顔になると、そのまま背を向けて歩いて行ってしまった。  舜海はその白い姿を、複雑な思いで見送っていた。

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