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五、黒く染まる

 その頃、具合の優れない千珠は、宇月と二人で自室の縁側にいた。  鬼の力が戻ったおかげで幾分元気にはなっていたものの、気が澱み、ぴりぴりと神経質になっている。それが自分でも分かるため、千珠は穏やかな心持ちでいようと努めて気を宥めているのである。  宇月は何も言わず、庭先で遊ぶ雀たちを眺める千珠のそばにいてくれた。それが嬉しくもあり、逆に早く一人になりたくもあり、千珠は両極に揺れる気持ちを持て余す。 「……雀って、可愛いよな」  ぽつりと、千珠はそんな事を言った。宇月がこちらを見たことが、空気の動きで分かる。 「なんかさ、丸くて小さくて。お前みたいだな」 「……はぁ。雀に例えられたのは始めてでござんす」 「……だよな。……っ」 「千珠さま、どうしたのでござんすか?」  鋭い痛みに、目の前が真っ白になる。全てが眩しすぎて、目から入った光が頭の中を焦がすようだ。 「あ、……くそっ……!!」 「千珠さま!?」  千珠は頭を抱えて、その場に蹲って縮こまる。  ――くそっ……なんだ、この痛みは。それに……何だろう、何でこんなにも、宇月を疎ましく感じるのだ……。  背中を擦る宇月の暖かな手の感触、労るような高い声、それらの何もかもが、嘘臭く欺瞞に満ちたものに思われて苛立ちと怒りが跳ね上がる。  千珠は虚ろに尖った瞳を上げて、宇月を見た。その目線を受け止めて、宇月は怯えたように手を引っ込める。  千珠の瞳は明るい琥珀色だが、今のその目の中には、明らかに黒い影が蠢いている。  宇月は、小刻みに身体を震わせながら、後退った。しかしその瞬間千珠は宇月に飛びかかり、目にも止まらぬ速さで、小さな身体を畳の上に押し倒していた。 「きゃ……!」  あっさりと宇月を組み敷いた千珠は、表情のない目で宇月の怯えた顔を見下ろす。 「千珠さま!どうしたのですか!」 「……お前は、どうして俺の物にならない」 「え!?」  自分のものとは思えぬほどの低い声が、憎々しげにそんなことを言った。  身体が勝手に動き、口が勝手に宇月を責める。  か細い手首を握り締める手には容赦はなく、みしみしと骨が軋む。宇月は痛みに顔を歪めた。 「痛……!やめるでござんす!」 「何故、俺を拒むのだ。この俺を……!」 「離して!!」 「お前を喰ってやろう。言う通りにならないのなら、生かしておくだけ無駄というもの」  千珠は只人よりも鋭い犬歯を獣のように剥き、邪悪に笑った。赤い唇を釣り上げて、舌なめずりをする。 「俺の血肉となり、一つになればいい」  宇月の襟元を乱暴に開き、細い首筋を顕にさせた。白い柔肌に、千珠の唾液が滴る。宇月は恐怖のあまり目を見開き、動くことが出来ぬ様子だ。 「千珠さま!いやです!!やめて!!」  そんな叫びなど気にも留めず、まさに宇月の首筋に食らいつこうとした。しかしその瞬間、千珠の動きがぴたりと止まった。  その隙に、宇月は身を起こして素早く千珠から離れた。 「あ……ううぅ……くそ……!」  その場に四つん這いになり、頭を押さえて千珠は呻いた。宇月ははだけた着物の前をかき合わせ、怯えた眼で千珠を見ている。 「っっ……あっ……何で……こんな……!」 「千珠さま……?」  千珠は頭を押さえたまま、顔をゆっくりと上げた。  そこには、いつもの千珠の瞳があった。痛みに顔をしかめながらも、宇月を気遣う視線が確かにある。 「……宇月、行け。俺から離れろ……今の俺、何をするかわからない……。早く!行け!!」  宇月はあいも変わらず怯えた顔で立ち上がると、そのまま走って部屋を出た。  千珠は痛みにくらむ目をぎゅっと瞑ると、その場に仰向けに転がった。見慣れた天井がぐるぐると回って、吐き気がする。 「はぁ……はぁ……こんなに、重い憎しみとは……」  夜顔の憎しみが、千珠の心を黒く染めてゆく。千珠は耳飾りに触れ、乱れる呼吸を整えようと深呼吸をした。  ――外へ、出たい……。もっと、人のいない静かな所へ……。  千珠はふらりと立ち上がると、脂汗を流しながら庭へ出た。  そして、ひょいと城壁を飛び越え、城の外へと出ていってしまった。    ✿  急いで舜海を連れてきた宇月だったが、部屋にはすでに千珠の姿はなかった。 「一体どこへ……!あんな状態で外に出るのは、危険でござんすのに……!」  宇月は珍しく焦りを顕にして、部屋や庭を見回していた。裸足で庭へ飛び出す宇月について降りると、舜海はその肩に触れた。 「おい、落ち着け。お前らしくもない」 「……しかし、私がついていながら千珠さまをあんな……」 「お前は女や。あいつの取った行動に怯えるのはしゃあないことや。お前のせいじゃない」 「でも……」 「俺が探してくるから。な。お前はここで待っとけ。お前だけは、千珠をちゃんと待っといてやれ」 「……はい」  宇月はしゅんとなって、舜海の言葉に頷いた。舜海は城壁を仰ぎ見て、千珠の気を辿ろうとした。そして、庭木を頼りに城壁の上へ登る。  その隣に、突如柊が現れた。 「うわ!お前どっから湧いてん!虫か!」 「千珠さまがおらへんくなったって?」  舜海の問は無視して、柊は頭巾の下から鋭い目線を逡巡させている。 「ああ。お前も探してくれ」 「はいよ。見つけたら、ここじゃなく廃寺へ連れて行くからな。(ここ)は人が多すぎる。今の千珠さまを、あまり人目に晒したくない」 「せやな」  二人は逆の方向に飛び降りると、千珠を探して走り始めた。

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