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六、さまよう千珠

 千珠は、気づけば人気のない山の中を彷徨っていた。  少し開けた高台へ出ると、そこには見事な銀木犀の巨木が一本、立っていた。たっぷりとした枝に青々とした美しい葉をつけ、さわさわと涼し気な音を立てながら、葉の隙間からきらきらと光りを照らすその景色は、この世のものとは思えぬほどに美しい。  千珠はその巨木の根本に腰を降ろすと、くったりと幹に寄りかかる。千珠の背を受け止めるひんやりとした樹木の感触に、昂った気持ちが少し落ち着く。  夜顔の妖気を身体に抑えこんで五月(いつつき)が経とうとしているが、ここ数日に見る夢は特に酷い。  あれはただの夢ではない。まるで千珠を狂気に追い込み、生々しい記憶を呼び覚ます呪術のようだった。  千珠は頭痛を堪えて、閉じていた目を開く。  澄み渡った青空に、少し翳った葉色が美しく映える。今まで自分が見ていた悪夢を、全て浄化するように。  このまま、ずっとここにいたいと思った。誰にも会わず、たった一人で。  あんなにも孤独を恐れていたのに、今は人間たちと過ごすことが煩わしいとすら思える。  独りきりならば、このまま狂気に堕ちたところで誰の迷惑にもならないというのに。そしてそのまま、消えてしまうことも出来るのに……。  じゃり、と足音がした。  せっかく落ち着いてきた気持ちが、またざわりと逆撫でされる。 「あ……あなたは……」  女の声。千珠は面倒臭そうに目を上げると、そこには女が一人、摘んだ山菜を山盛りにした籠を抱えて立っていた。  女は、千珠の姿を見て少し恐ろしげに表情を硬くしたが、じっとしている千珠を見て油断しているのか、少しずつ警戒を解いてゆくのが伝わってくる。 「あの……お城におられる、千珠さま……でしょう?」 「……だったらなんだ」  女のおずおずとした問いかけに、千珠は苛立ちを隠さぬ口調でそう応えた。女はびくりと身体を揺らしたが、続けた。 「あの……私はお城に武具を納める一家の者で……何度かお姿を拝見いたしておりました」 「……そうかよ」 「あの……」 「五月蝿いぞ!」  まだ何か言いたげな女に、千珠はついに声を荒らげた。  女は怯え、籠を取り落とす。足元に山菜が散乱した。 「申し訳……ありません!」  女が走って行ってしまいそうになるのを見て、千珠は動いた。一瞬で女の目の前に降り立つと、冷ややかな目線をくれてやる。 「ひっ……!」 「恐ろしいか、俺が」 「……いいえ、そんな……」  女は尻餅をつき、千珠を強張った表情で見上げる。千珠はその女の前に膝を着くと、女の顎を片手で捉えた。 「お前、なかなかいい女だな」  千珠の美しさを間近に見て驚いていた女は、真っ赤になって目を見開く。 「美味そうな肌だ、たまにはお前のような村娘も悪くないか」 「……えっ?」  千珠はぐっと女の首を掴むと、そのまま女を押し倒した。一瞬吹いた強い風に落とされた葉が、二人の上をひらひらと舞う。 「……いや!いやっ!」  ばたばたと手を振り回す女を忌々しげに見下ろすと、千珠は女の両手を片手でまとめて掴み上げる。  女の顔が恐怖に歪み、千珠はその表情を楽しむかのように、にやりと妖しく微笑んだ。 「……そう怖がるな。すぐに済む……」  千珠が女にのしかかろうとした瞬間、千珠の頬をかすめて何かが地面に突き刺さった。  弾かれたようにそちらを見ると、そこには忍針が数本突き立っていた。先端に毒を塗り、敵の動きを封じるための忍具である。  涼やかな風の音と共に、柊が千珠の前に現れた。 「……柊」 「千珠さま、おいたが過ぎますよ」  女の上から飛び退いた千珠に、柊はゆっくりと歩み寄った。千珠はひらりと銀木犀の枝の上に逃れ、まるで木上の猫のようにじっと柊を見下ろす。 「邪魔するな、柊」 「千珠さま、帰りますよ。こんなとこで女を襲うなんて、あなたらしくもない」 「俺の勝手だ……ろ……」  不意に、木上の千珠の身体が傾いだ。そのままぐらりと木から落ちようとするその身体を、柊は事もなく受け止める。 「眠り薬です。千珠さま用に、少し強めにして来ました」 「……おまえ……」 「全く……何をやっているやら」  柊は意識を失った千珠をひょいと肩に担ぐと、腰を抜かしている女のもとへ歩み寄った。  女は呆然として柊の上背を見上げている。 「すまんかったな。普段はこの子もこんなことせぇへんのやけど。立てるか?」 「あ、はい……。あなたは?」  女の問いかけに、柊は口布を下げて顔を晒した。 「城の忍や。柊という」 「柊、様……」 「すまんが、このことはあまり人に言わんといて欲しい。ちょっと、苛々してはるだけやから」 「……分かりました」 「すまんな」  柊は短くそう言うと、再び口布を上げて千珠を抱え直し、さっさと走り去ってしまった。  後に残された女は胸を押さえて、柊のすらりとした背中を見送っていた。

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