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七、暴れる鬼気

 舜海が廃寺にやって来たのと、柊が眠り込んだ千珠を抱えてやって来たのはほぼ同時だった。柊は状況をかいつまんで舜海に伝え、硬い木の床の上に千珠を寝かせる。  千珠の伏せた睫毛の下には、今やくっきりと影が現れている。昨日舜海が見た時よりも、さらにげっそりとやつれたその姿に、驚かずにはいられない。 「……千珠、なんで」  この四年、こんなにも疲弊した千珠を見たことはなかった。思わず膝をついて、千珠の頰を両手で包み込む。 「雷燕のせいやろうか……」 と、柊も重い口調だ。  直接その肌に触れるのは、久方ぶりだ。舜海は柊の存在を思い出し、ぱっとその手を引っ込めた。  そんな舜海の行動を見守りつつも、柊は言った。 「舜海、千珠さまを抱いてくれ」 「え?」 「もうこれ以上、ほっておけへん。お前なら気を高められるんや。こんなときに助けてあげへんで、どうする」 「……でも」 「お前の気持ちは分からんではない。でも、このまま千珠さまを苦しめておいてええんか?宇月や、村の女にまで手ぇかけようとしてたんやぞ」 「……」  舜海は、難しい顔で千珠を見下ろした。尚も動かない舜海に、柊は詰め寄って襟をつかむ。 「おい!ええか、千珠さまが死ぬようなことがあったら、殿も死ぬんや!覚えてるやろ!」 「あ……」  血の盟約。  千珠と光政との間でかわされた主従関係の誓いだ。その儀式の証人として、舜海は光政が千珠の血を飲むところを見ていたのだから、忘れるはずがない。 「頼む。このまま千珠さまが弱って、殿にまで何かあってみろ、青葉はおしまいや」 「……」 「舜海!こんな時に意地を張るな!必要なことなんや!」 「……分かった」  舜海はしばらく考え込んでいたが、柊のあまりに必死な様子に気圧されて頷いた。少し安心したように表情を緩めると、柊は舜海の襟から手を放す。 「すまんな」  柊は背を向けて、ぽつりとそう言い残し、廃寺の扉から姿を消した。  ✿  しんとした広い堂の中に、千珠と二人になった舜海は、そのかたわらに座り込む。  弱り切った千珠の気を高めてやらなければならないのは分かる。しかし、もう触れまいと誓った千珠を抱いてしまった時、これ以上自分の気持ちを抑えきれるのかという不安もあった。  しかし、目の前に横たわる青白い顔をした千珠を見ていると、すぐにでも回復させてやらなければと焦る気持ちもある。  舜海は意を決して、千珠の顔の横に手をつき、その白く美しい顔を覗き込んだ。  長い睫毛が時折痙攣するように震え、かすかに開いた唇から浅い息が漏れる。触れた額は、かなりの熱さだ。 「……苦しいんやな」  舜海はそう呟くと、ゆっくりと顔を寄せて千珠の唇を覆った。  一旦唇を離して顔を見ると、千珠の呼吸がわずかに落ち着きを取り戻しているように感じられた。手応えを感じ、舜海はもう一度千珠に息を吹き込む。  懐かしい感触だった。千珠の唾液が、まるで媚薬のように舜海の脳を痺れさせ始める。   吸い付いてくる柔らかな唇は、目眩がするほどに心地良く、奥底に鎮めていたはずの猛りが、下腹部のあたりでじんと疼いた。 「う……あ……」  しかし千珠の唇が動き、呻き声が聞こえてきたことで舜海は我に返った。顔を離し、千珠の肩を揺さぶる。 「おい、千珠。大丈夫か?」 「あ……俺……」  かすかに目を開いた千珠は、ぼんやりと舜海を見上げていた。舜海はその頬に手を添えて、親指で汗を拭ってやる。 「おい、しっかりせぇ」  千珠は舜海を認識するや、表情を険しくして舜海を突き放した。突然のことに、舜海は驚いて身を引いた。  千珠は身を低くして、怯えた獣のように舜海をじっと見据えた。広い堂の中で、千珠は四つん這いのままじりじりと距離を取って後退(あとずさ)る。 「おい……何やってんねん」 「……俺に触れたか」 「え?ああ、触れた。それがどないしてん」  千珠の様子を訝しみながらも、舜海ははっきりとそう言った。   すると千珠は目を釣り上げて牙を剥き、舜海を憎々しげに睨みつけた。 「触るな……俺に触るな!」 「なんやと?どうした、お前」  千珠の様子がおかしい。  千珠は手負いの獣のように舜海を警戒し、毛を逆立たせて床に爪を立てた。びしっ、と床板の裂ける音が響く。 「千珠、おい」 「……寄るな!!」  身を低くしていた千珠がまっすぐに立ち上がり、素早く数珠を解く。  そして、宝刀を抜いた。  青白く輝く刃が自分に向けられる様子を、舜海は信じられない思いで見つめていた。 「……お前、何で俺に剣を向ける」 「俺に構うな。もう……人間とは関わりたくない」 「何やと?千珠、お前……一体どうしたんや」  一歩、舜海は千珠に近寄った。すると千珠は一歩下がり、宝刀をまっすぐに舜海に向けてぴたりと止めた。 「もう……疲れたんだ。俺はたくさんの人間を殺した。それは事実だ。あいつらの目に怯えながら、人の中で生きることに疲れたんだ」 「千珠……」  千珠が悲しげに表情を翳らせるのを、舜海は見逃さなかった。千珠はまた、頭痛に頭を押さえる。  舜海は、それが雷燕という名の大妖怪のもたらした影響であることを、まだ千珠に伝えていないことを思い出す。それさえ分かれば、きっと千珠は落ち着くはず……。 「千珠!それはお前のせいじゃない!今、能登で……」 「黙れ!!もうやめろ!俺を面倒ごとに巻き込むな!」  千珠は聞く耳持たず、首を振ってそう言った。 「いいから聞け!」  とん、と木の床を蹴る、軽い音が聞こえた。そう思った瞬間、千珠の宝刀の(きっさき)が目の前に迫っていた。思わず舜海は抜刀し、その刃を目の前で防ぐ。  きぃいいん!と鋭い音がして、二人の間に火花が飛び散った。  数年ぶりに受けた千珠の刃は重みを増し、舜海はそのまま後ろに弾き飛ばされ壁に激突した。  間髪入れずに二撃目が襲いかかってくるのを、舜海は座り込んだまま刀で受け止めた。刀の峰に宛てがった手の甲から血が吹き出す。  我を忘れてぎらぎらと光る琥珀色の瞳の中に、黒い影がちらつくのを見た。  舜海は雄叫びを上げ、渾身の力を込めて千珠の刀を弾くと、さっと素早く印を結ぶ。 「縛!」  金色の鎖によって身を縛られた千珠が、その場にがっくりと膝をつく。悔しげに舜海を見上げるその目には、はっきりとした憎しみがこもっていた。 「術を解け!離せぇ!!」  身体を捩らせ、舜海を鋭く睨み上げながらそう叫ぶ千珠を、舜海は冷静な目で見下ろした。  明らかにこれは、千珠ではない。  夜顔の、雷燕の憎しみに突き動かされている鬼の本能が、千珠の身体を使って暴れているに過ぎないのだ。 「我を忘れたお前に、俺が負けると思うか?」  舜海は静かな声でそう言うと、千珠の頬を思い切り張った。ばしっと鋭い音がして、千珠の身体が横に倒れる。がしゃ、と宝刀が堂の床に転がって消えた。  千珠は首だけを起こして、さらに舜海を睨み上げる。 「……人間風情が、こんな攻撃(もの)で俺を傷つけられると思ったか」  千珠は低い声でそう言うと、小馬鹿にしたようににやりと笑う。 「千珠は、そんな言葉は使わへん」  舜海は千珠の襟を掴んでその身体を持ち上げると、じっとその目の中を覗き込む。 「千珠の意識を返してもらおう」  舜海は千珠の左の耳たぶを、耳飾りごと掴んだ。左の耳飾りには、夜顔の気が封じられている。 「封印術、封魔永劫!急急如律令!!」  舜海の声と共に、掴んでいた耳飾りから真っ赤な光が迸った。千珠は目を見開き、苦しげに叫び声を上げる。 「ああああああ!!!」 「鎮まれ、千珠……!」  千珠の身体が硬直し、背中を反らせてびくびくと痙攣する。どろどろとした黒い妖気が一瞬全身を燃やし尽くすように姿を現したが、すぐに耳飾りの中に勢い良く吸い込まれていく。  直後、がっくりと力が抜けた千珠の身体を、舜海は全身で受け止めた。

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