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九、去り際の笑顔

 千珠は起き上がった。  開け放たれた扉口から外を見遣ると、太陽はすっかり西へ傾き、山の端を紅く染めている。橙色の細い光が、寺の中に差し込んで、床に白い模様を浮かび上がらせていた。 「千珠……?」  ぼんやりとした声で、自分の名を呼ぶ舜海を見下ろすと、千珠は少し笑みを浮かべ、その逞しい胸筋に触れた。  そして、拳を固めると、その鳩尾を強かに殴りつけた。 「ぐっ……は!」  舜海は身体をくの字に折って呻いた。事の後で弛緩し、油断していた身体だ。この拳をもろに食らって、平気なはずがない。 「……お前……なん……」  千珠は立ち上がると、胸の前で一度合掌をしてから、心臓の上に手を当てる。そこから物質化した妖気が、するすると千珠の身体を覆ってゆく。  白い狩衣姿となった千珠は、振り返って舜海を見下ろした。  その目は穏やかで、一縷(いちる)の迷いもない。  腹を押さえて蹲りながらも、何とか起き上がろうとしている舜海の前に跪くと、千珠は少し微笑んで、その額に口付けた。 「……おまえ……何を」 「……ごめんな」  千珠は舜海の目を見つめて微笑み、小さな声で囁いた。そして、音もなく立ち上がる。 「待……!!」  手を伸ばそうとする舜海のうなじに、千珠の手刀が落ちる。千珠の衣を掴もうと手を伸ばした姿勢のまま、舜海はその場に倒れ伏した。  千珠は踵を返すと、堂の扉を少し開いて、一度だけ舜海を振り返った。  そして、その場から消えた。

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