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十二、ひとり

 千珠は一人、走っていた。  独りきりでこんなに長い時間走り続けるのは、久しぶりだ。いつもは誰かが一緒にいて、馬で行くだの集団行動をしろだのと口喧しく説教をされ、いつもいつも煩わしいと思っていた。  しかし、一人になると分かる。  あの煩わしさが、自分にとっての居場所だったのだと。  仲間たちから離れて、一人で能登へ向かう。  自分は一体、何をどうしようというのかも分からないままに。  雷燕。  北で最強の、妖。  会ってみたいと思わされるのは、この身の中に眠る夜顔が父を求めるせいなのか。それとも、雷燕が千珠を呼んでいるせいなのか。  会ってどうするなどとも決めぬまま、ひとりになって夜の森を奔るのだ。  鬼の血が、引き寄せられるようだった。  どんな姿かも、どこに居るのかもわからないのに、後先考えずに行くのだ。  山々の木々の枝の上を駆けながら、千珠は少し自嘲気味に笑う。  ――どうかしている。  あいつら、怒っているだろうな……。宇月は、気にしてるかな。昼間あんなことを言ってしまったから。  俺は宇月が傍で笑って見ていてくれるだけで幸せなのに、あんなことを口走るなんて。  でもきっと、心の片隅で思っていたことなのだろう。でないと、あんなことを口にするわけがない……。  文句を言う千珠を嗜める柊や、そんな二人を見て笑っている宇月。いつも調子に乗って馬鹿をする竜胆、静かにこまごまとしたことをしてくれる山吹。  そして、舜海。  普段の舜海は、何かにつけ千珠に文句を言ったり、ふざけたり、怒ったり。何だかんだといつも笑ってそばにいた。舜海がいると、その場がとても楽しくなった。  二人のとき、口には出さなくとも舜海の気持ちを肌で、眼で、身体で感じていた。彼のはっきりとした強い目は、いつだって自分を大切に思う気持ちで溢れていた。    ――愛してる。  嬉しかった。本当に、嬉しかった。  普段はおちゃらけて本音を見せない舜海の心のうちを、ようやく言葉にして伝えてくれたこと。  胸を突き上げるような切なさと幸福感に酔いながら抱かれた、あの素晴らしい時間。思い出すだけで、身体中が熱く火照って疼き出す。  愛を囁かれながら最奥を突かれ、一番いい所を擦り上げられ、頭が真っ白になるまで舜海に抱かれて。泣くほど良くて、声が枯れるほどに喘いで、広い背中に爪痕を残した。    ——守られる安堵感をくれた、力強く背中を押してくれた、一人じゃないと言って涙を拭ってくれた。そんなあいつを、愛おしく思わぬはずがない。    舜海を手放せぬまま、宇月への気持ちにも駆り立てられる。こんなに欲深いことがあっていいはずがない。  ――それならばもう、一人になってしまえばいい。  自分を抱き締める強い腕と、熱い目線が蘇り、千珠は心臓をぐっと掴まれるような気持ちになった。  強烈な快楽と、強烈な感情の昂ぶり。日溜まりに居るような幸福感をくれる宇月とは、全く違う存在……。  久し振りに舜海と交わって、かなり気が高まっている。身体が軽い。なのに、心はこんなにも遠い。人の世で生きてきたことが、もう大昔のことのように感じられる。  千珠は目を閉じて、夜の空気を思い切り吸い込んだ。冴え冴えとした糸月の下、自分もこの大地と一体となって溶けて行ってしまいそうな、雄大な夜。  ――気持ちが、落ち着く……。  ひとりになって、もっと孤独を感じるかと思っていたのに。今千珠を満たすのは解放感だ。  人間との感情のやり取りを排したこの身に染み入るのは、果てのない自由。  ――これでいい。これでいいんだ。  ふと、千珠は目を開いて立ち止まった。  がさがさ、と飛び乗った枝が乾いた音を立てて揺れる。  匂いがする。  人間ではないものの匂い。そもそも、こんな山奥に人間などいない。  一人、だな。  かなり高い妖力を持った妖。そして、女物の香のような匂い……。  千珠はざざっと、巨木の枝から地上へと降り立った。  とん、と軽く着地すると、月の光も届かぬ森の中を見回した。しばらく歩を進めると、樹々が途切れて開けた場所に出た。地面を削りながら流れる川と、ごつごつとした巨岩が転がっている。  一際大きな岩の上に誰かが座っているのが見えた。  千珠は身構えて、その影を見上げる。 「……おや。この匂い、何だろうねぇ……」

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