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十三、紅玉

 相手も千珠に気づいた様子だ。千珠は興味を惹かれ、ひょいひょいとその岩の側まで駆け上る。  月の下、その妖の背中を見下ろして、千珠は立った。 「……鬼……か。それにしては人間臭いな……」  振り返ったその顔は、女だった。艶やかな赤紫の着物を身に纏い、結い上げたたっぷりとした黒髪には、美しくきらめくかんざしが刺さっている。釣り上げた細く赤い唇は艷やかで、妖しく千珠に流し目を送るその目の縁は紅く塗られていた。  その女の妖は煙管を咥え、横顔で千珠を見ていた。 「……お前、妖か」 と、千珠は問いかけた。女はにやりと笑って、千珠の方に向き直る。 「見りゃあ分かるだろう。お前、見ない顔だね。どこから来た?」 「それは言えない。西の方とだけ言っておく」 「ふうん……。何の用だい、こんな山奥にさ」  女は立ち上がって、千珠に歩み寄ってきた。間近で見ると、その女は千珠よりも頭二つ分ほど背が高く、そしてその目つきには一分の隙もない。  千珠は思わず半歩退いた。  まるで地の底から湧き上がるような、強大な妖気を感じたのだ。それをひけらかすでもなく、驕るでもなく、その妖は泰然としてそこにいる。当然のように、自然の一部として。 「ほう……お前、美しい顔形をしているね」  女は千珠を見下ろして、くんくんと匂いを嗅いだ。月明かりに照らされた千珠の銀髪や赤い耳飾りを観察する。  そして仕上げとばかりに煙管をくいと吸うと、ふうっと千珠にその煙を吐きかける。千珠は軽くむせた。 「……まだ子鬼だな。それに、半妖か」 「……ああ、そうだ」  涙目になりながら、手で煙を払う千珠を見て、女はにやりと笑った。 「なかなか美味そうな匂いだ。それに、何と瑞々しい身体だろうね……」  女は千珠の顎を捕らえてぐいと上を向かせる。千珠はとっさにその手を払うと、ぱっと間合いをとって飛び退いた。 「触るな」 「ふうん……疾いじゃないか。お前、名は?」 「……千珠」 「千珠、ね。半妖の鬼か、面白い」 「お前の名は?」 「あたしの名、だと?」  女は驚いたようにそう言って、目を見開いて千珠を見る。 「名など問われたのは、何百年ぶりだろうねぇ」 「そんなに長生きなのか!?」  千珠は驚いて大声を出し、それを聞いた女は高笑いをした。 「あはははは!そうか、お前は人の中で生きてきたのか。何も知らぬわけだ、可愛らしい子鬼だこと」 「……」  女はひとしきり笑った後、目元を拭いながら言った。 「あたしは、紅玉(こうぎょく)。ここいらの山はあたしの縄張りだ」 「紅玉……美しい名だな」  千珠は脳裏に赤々とした林檎を思い浮かべながらそう言った。もっと何か言ってくるのかと待っていた千珠であったが、紅玉はきょとんとして、黙りこんでいる。 「?」  紅玉は長い睫毛を瞬かせて少し頬を染め、つんと横を向いて煙を吐き出す。 「……なんだ、どうした?」 「……名を褒められるなど、それこそ数百年ぶりだ」 と、紅玉はさっきまでの高飛車な態度とは打って変わって、まるで乙女のようにもじもじしている。 「そう、か」  千珠よりも大きな身体でくねくねしている紅玉に戸惑ったが、それを好機と捉え質問を投げかけた。 「聞きたいことがある」 「な、なんだい?」  紅玉はちらりと千珠の顔を見ると、顔を赤らめてまた目を逸らした。 「……雷燕、という妖について教えて欲しい」 「!」  紅玉の表情が硬くなる。千珠はじっとその目を見返して、返事を待った。 「……雷燕か、今随分と派手に暴れているそうだねぇ」 「知ってるんだな?」 「何故あいつのことを知りたがるんだい?」 「別に、ちょっと会ってみたいだけだ」 「会う?雷燕に?なぜ?」  紅玉はまた驚いたようにそう言った。 「お前には、関係無いだろ」  千珠の冷ややかな言葉に、紅玉は口を噤んだものの、にやにやと笑いながら近づいてきた。 「……まぁいい。お前に興味が湧いた、教えてやろう」  紅玉は再び巨石の上に座ると、美味そうに煙を吐いた。 「雷燕てのは、ずっと昔、それこそ数百年前から能登を棲家にしている妖だ。昔は人とも仲が良くてねぇ、よく漁なんかを手伝っていたそうだよ。馬鹿な話だろ?」 「昔は、か」 「知ってるだろうが、あの辺りは強い妖が生まれやすい土地柄でねぇ。雷燕は、あの土地の妖をまとめながら生きてきたんだ。人間のために、妖が暴れないようにするためにだよ」 「え……」 「それがね、この数年余、各地の祓い人があの地に妖を狩りに来るようになった。まったく舐めた話だ。妖たちは騒ぎ立て、実際狩られてしまった妖怪も数多いた。奴らは人間たちを甘く見過ぎたんだ。 ……そして、雷燕は人間に裏切られたと感じ、激しい怒りを顕にした。それこそ、天変地異が起こる程のね」 「……」 「彼の地は荒れ果て、草も生えぬ国になった。それでも尚、祓い人達はやって来た。雷燕はついに、人を襲うようになったのだ。……それからというもの、国には恨みと争いが絶えず、人々の心も荒んでいった……」 「随分、詳しいんだな」 「まぁね。奴とは知らない仲じゃない。かといって、友人というわけでもないけどね」 「昔は……随分と良い奴だったみたいだな」 「ああ、気持ちのいいやつだっんだよ。燕という字があるように、黒く美しい髪と瞳をしていた。人間たちの周りで歌いまわるような、可愛らしい妖だったんだけどねぇ」  紅玉は懐かしげに微笑みを浮かべながら、煙管を口にした。 「でもね、長生きすれば人も土地も変わるもんだ。雷燕は純粋すぎたんだよ。人を信じようとしすぎたために、他愛ない裏切りに、あんなにも打ちのめされて……。あたしらみたいな妖は、人間など信じようと思ったこともなけりゃ、関わろうとすらしないのが普通だよ。でも、あいつはそうじゃなかったんだねぇ」 「ふぅん……」 「お前は、随分と人間と仲良く生きているようだね。その臭い、何とかならないのかぃ?人臭いったらありゃしない」 「……そうでもない。煩わしいだけだ」 「そりゃあそうだろうさ。人間の力など、我らから見れば取るに足らぬものだよ。千珠、お前は裏切られてはいないのか?雷燕のように」 「……」  裏切りなど、千珠の周りには起こったことがなかった。  皆が千珠を受け入れ、護ろうとしてきてくれた。  雷燕は人の中で生きようとしながら、それが叶わなかった……。  今回千珠を襲った気の乱れは、今暴れている雷燕の影響は大きい。人間を煩わしく思い、その世界から引き離そうとするかのような幻影をたくさん見せられた。  これは、雷燕の意思なのだろうか。人の世でのうのうと生きている千珠を、そこから離して孤独にするためのものなのか。  千珠は顎に手を当てて、少し考えた。  紅玉に訊いた話から推測すると、雷燕の今回の反乱は、人に対する並々ならぬ思いの裏返しであるようにしか思えない。 「雷燕は、どこにいるんだ?」 「はぁ?お前、まさか雷燕を止めようとか考えてるんじゃないだろうね。お前のようなひよっこ、一瞬で殺されてしまうよ」 「それはまだ決めていない。ただ、会わねばならぬと感じた」 「一体会ってどうするつもりだ。説得でもするのか」 「分からない。でも……雷燕の気に呼ばれて俺はここまで来てしまった」 「呼ばれた、だと?」 「あいつの息子の妖気を、俺が預っているんだ」 「ほう……まぁ、雷燕の種など、このあたりでは珍しくもないが。雷燕の気に食われず、成長した童子もいたということか」 「そうみたいだな」 「ふん……。居場所ね、そんなものはあたしも知らんよ」 「何だ、知らないのか」  千珠ががっかりしたようにそう言うと、紅玉はむっとした顔で言った。 「雷燕ほどの妖になると、もうそれは自然そのものといってもいい。能登の半島の先まで行けば、何か分かるかもしれないよ」 「そうか、ありがとう」  千珠が踵を返そうとすると、紅玉はふわりと風の様に飛んで目の前に立ちはだかった。 「おやおや、そんな言葉だけの礼で、ここを去るつもりかい?」  千珠はじっと紅玉を見上げた。紅玉は唇を釣り上げて笑うと、指先で千珠の顎をついと上向かせる。 「お前みたいな美しい男を、みすみす手放すのは惜しい」 「……どうしろと?」   千珠はやや怯えた。    まさか本当に喰われてしまうのではないだろうな……。紅玉の妖気は、見たところ千珠よりも強い。戦闘になれば、ここから無傷で立ち去ることはできないだろう。 「……」  千珠の背を、冷や汗が伝う。紅玉の鋭い目を、無表情を装って見上げるのが精一杯であった。 「あたしの夫になれ。ここで、ともにこの地を守っていこうではないか」 「……えっ?」  紅玉は頬を赤らめて、千珠の身体に触れてきた。自分よりも大きな女に触れられるのは始めてな上に、要求の内容が受け入れがたく、千珠はぞくっと身震いする。 「よいではないか。せっかく煩わしい人間たちから離れてきたのだろう?雷燕のことなど放っておいて、ここであたしと平和に暮らしていこうじゃないか」 「いや……それは……」  千珠が口ごもるのを、照れているのと勘違いしたのか、紅玉は更に千珠ににじり寄ってきた。 「数百年の歳の差など、珍しいことではない」 「え……そうなの?」 「何でも手取り足取り教えてやろう」 「いや……でも、俺……」  紅玉の艶やかな顔が千珠に迫る。千珠はじりじりと後退していたが、ついに岩の縁に追い詰められ、逃げ場がなくなってしまった。 「のう、千珠よ……」 「俺……俺は……お、男にしか興味がないのだ!」  そんな言葉を口にしてしまってから、千珠ははっとした。ぱっと紅玉を見上げると、衝撃を隠しきれない愕然とした表情で、千珠を見つめている。  千珠はそんな嘘が紅玉に通じるはずがなかったのではないかと思い、言ってしまったことを後悔した。  むしろ激怒されて、戦闘になったら勝ち目はない……。 「……そうか」 「えっ?」  物悲しげに、紅玉はそう呟いた。思いもよらぬ反応に、千珠は拍子抜けする。 「お前ほどの美しい男だ……そういうこともあるかもしれないねぇ」 「あ、ああ……」 「しかし、男を抱くのならば、女も抱けよう?」 「い、いや……男に抱かれるのが、好きなのだ……」  あながち間違ってもいないな、と思いながら千珠はそう言った。紅玉はまた悲しげな顔になると、首を振ってため息をつく。 「そうか……。確かに、あたしが男だったとしても、あんたみたいな男放ってはおかないものな」 「あ。そう、かもな……」  千珠はどぎまぎしながら、そのまま去ってしまおうと考えた。 「じゃあ、俺はこれで……」 「待ちな」 「……何だよ」 「あたしも雷燕のところへ共に参ろう」 「えっ!何でだよ」  紅玉は楽しげに笑うと、煙管を口に咥えた。 「退屈してたところだし、お前にもう少し付いて行きたくなった」 「遊びに行くんじゃないんだぞ」 「分かってるよ。でも、雷燕の知り合いであるあたしが一緒なら、色々と話しもしやすいかもしれないよ?」 「……それは、そうだけど」 「なら、良いじゃないか。あたしはお前に興味が湧いた」 「……」  かくして、千珠には道連れが一人。  紅玉と連れ立って、能登の半島へと向かうのであった。 

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