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三十三、千珠、死す

 黒い忍装束と、銀色に閃く刀が見えた。  柊が風のように現れ、千珠を捕らえていた雷燕の右腕を斬り落としたのだ。  どしゃ……と、湿った音を立てて地に落ちた自らの腕を見下ろす雷燕が、吼えた。  怒りと、苦痛と、苛立ち。びりびりと空気を震わせ、地面を割るような重々しい咆哮が、海鳴りと共に能登の地を揺らす。  戒めを逃れて倒れかけていた千珠の身体を抱き留めて、柊は素早くその場から離れた。  腕を落とされ、激痛と屈辱に喘ぐ雷燕が、威嚇するように柊を()めつける。しかし柊は、いつものごとく何にも動じない冷静な眼差しのままだ。 「……この、人間が……!」 「ひ……らぎ……」 「喋らんほうがいい。山吹、朝飛、千珠さまを」  どこからともなく現れた二人が、千珠の身体を引き受けて後退した。  白い狩衣が血で真紅に染まっているのを見て、山吹は痛ましげに眉をしかめる。かつては敵の血で赤に染まっていたその狩衣が、千珠自身の血で汚れているのだ。  柊は立ち上がり、三人を背に庇うようにして雷燕に対峙した。すらりとした背中に、頭巾がはためく。  黒い忍装束は雷燕の放つ瘴気に霞む闇の中に溶け込んで、淡く光を放つ刃だけが銀色に浮き上がっているようだった。 「雷燕殿。どうか鎮まってはいただけぬか。これ以上、我らはあなたを傷つけたくはない」  柊の凛とした声が、雷燕に投げかけられる。  雷燕は憎々しげに柊を睨みつけながら、ぼたぼたと血の滴る右腕を押さえている。雷燕ももう、血塗れだった。 「俺の腕を落とすとは……やるじゃないか、褒めてやる。しかし、その報いは受けてもらうぞ」 「言葉では届きませぬか。ならば」  柊は、刀を構えて攻撃態勢をとった。千珠はそんな柊を見て、力の入らない身体に鞭打って身を起こそうとした。 「よせ!……殺されるぞ!!」 「分かってる。でも千珠さまが死んだら、光政様も死ぬんや。俺は国を守るために生きてきた。ここで命を落とすくらい、どうということもない。覚悟の上や」  柊は口布を下げると少し顔を傾けて、千珠を見つめて微笑んだ。 「それに、死なんかもしれへん」 「……待っ……!」  柊が飛びかかっていくと同時に、朝飛も姿を消した。見れば、朝飛も背中から忍刀を抜いて、柊とともに雷燕に斬りかかって行くところである。 「頭!ここですか!?ここを斬ればいいんですよね!」 「そうや、そのまま行け!!」  二方向から飛びかかってくる黒い影に、雷燕は目をぎらりと光らせた。  そして左側から刀を振り下ろす朝飛の身体をいとも容易く弾き飛ばし、その隙をついて下から刃を斬り上げようとした柊に鉤爪を振り下ろす。 「……朝飛!柊!!」  千珠はいてもたってもいられずに、立ち上がろうとした。山吹はそんな千珠の身体を支えながら、そっと回収しておいた叢雲を手渡す。  千珠は山吹を見た。  その目も柊と同様、こんな状況下にありながらいつもの様に冷静で、千珠ははっとさせられる。 「これを。あなたが持っていないと意味がありません」 「……ああ」  千珠が叢雲を握ると、その刃は再び息を吹き返した。どくん、と千珠の妖気を嬉しそうに吸い上げる。 「おのれぇ……!!」  雷燕の注意を引きながら走り回っていた柊と朝飛が、雷燕の大きな翼に弾き飛ばされる。朝飛は岩肌に強く身体を打ち付けて、動かなくなった。 「朝飛!」  柊は朝飛の方へと走ろうとしたようだったが、脇腹を押さえて膝を折った。脇腹から大量の血が流れ出し、黒い忍装束を重たい色に濡らしている。  雷燕は朝飛を一瞥してから、柊の方へと歩を進めた。 「貴様、この腕の代償は大きいぞ」  雷燕は柊の前に立ちはだかると、翼を大きく広げた。柊の表情は、それでもなお静かだった。 「ちょろちょろと目障りなやつだ。さっさと死ね」 「柊に触れるな!」  雷燕の背後から、千珠は叢雲で斬りかかった。  不意打ちをしかけたつもりだったが、雷燕は千珠の行動を読んでいたらしい。すぐさまくるりと振り返り、千珠に向けて左腕を振り上げた。 「……か弱き人間の刃など、俺にはきかぬ。お前が来るのを待っていた」 「!」  その反応の速さに、千珠は目を見張った。雷燕はにやりと笑うと、千珠目掛けて鉤爪を鋭く振り下ろす。  千珠の胸が大きく裂けて、鮮やかな赤が、噴き出す。  白い手からこぼれ落ちた叢雲が、硬い岩肌を砕き、雷燕の足元に突き立った。  ゆっくりと仰向けに倒れていく千珠を、嬉々とした表情で見下ろす雷燕。  真っ赤に染まっていた千珠の瞳から、すうっと光が抜けてゆく。  胸から溢れ、迸る鮮血が景色を赤く覆い尽くした時、世界の全てがゆっくり、ゆっくりと闇へと沈んだ。  雷燕の勝ち誇った高笑い、柊の悲痛な叫び、唸り狂う冷たい海風。  全てが、まるで違う世界で起きているように、遠い。 「千珠、さま……?」  どしゃ、と湿った音を立て、千珠は仰向けに崩れ落ちた。  びくん、びくん、と痙攣する千珠の身体から次第に力が抜けてゆく様を目の当たりにして、柊の表情が凍りつく。 「せ、千珠さま……!千珠さま!?」  その呼び声にも、千珠は動かなかった。柊はふらつきながらも駆け寄ろうとしたが、雷燕の翼に弾き飛ばされて近付けない。 「千珠さま!!嘘や!!嘘やろ……!?」 「ふん、ようやく落ちたか。さて、ゆっくりと喰ろうてやろうか」 「千珠さま、千珠さま!!頼む!目ぇ開けてくれ!!」  柊の悲痛な叫び声が、海風のうねりとともに曇天へ吸い込まれてゆく。  沈黙した千珠の身体からは、もはや何の気配も感じ取れなかった。

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