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三十六、蘇る瞳
山吹の暖かな鮮血が、千珠の蒼白な頬に散る。
隣に倒れる、血に濡れた山吹の身体。涙を流しながらも微笑みを浮かべている山吹の横顔が、虚ろに開かれた千珠の瞳に映った。
どくん……。
どくん……。
活動を止めていた千珠の心臓が、動き出した。
ぱりん……と、微かな音を立てて、千珠の耳飾りが砕けた。夜顔の気を封じていた耳飾りから黒い炎が立ち昇り、みるみるうちにその身体を包み込む。
山吹をその手にかけ、呆然としていた雷燕は、千珠の変化に目を見開いた。
黒い妖気がぐるぐると千珠を取り囲み、その身体の中に吸い込まれていくのだ。
見開かれていた目が、その黒に染まる。じわじわと黒く変色してゆく白目、光を失っていた琥珀色の瞳が、わずかに揺れる。
次の時、千珠は瞬きをした。
そして深く深く胸に空気を吸い込み、ゆっくりと起き上がった千珠の姿に、雷燕は目を瞬いた。
風になびく長い髪は漆黒。黒と琥珀に色づいた瞳。身体から流れ落ちる血をものともせず、ぼろぼろになって身体にまとわりついていた血濡れの衣を剥ぎとって、上半身を晒す千珠の姿は、今の自分とそっくりだと雷燕は思った。
千珠は足元に倒れた山吹の身体に目を落とし、痛ましげに眉を寄せる。そして今度は真っ直ぐに、雷燕に目線を定めた。
冷ややかに射抜くような眼差しを真っ向から受け止めた雷燕は、一歩後ずさる。後ずさってから、自分の行動にはっとする。
――……今、あいつを恐れたか?この俺が?
千珠は手首から数珠を抜き、身の内から白珞の宝刀を抜いた。青白い光を湛える宝刀の柄をぎゅっと握り締めると、宝刀はさらに光を増し、更にそのまわりに黒い炎を纏わせる。
「山吹の言葉……聞こえた」
千珠は静かな声で、そう言った。
つられるように、雷燕も千珠の足元に倒れた女の姿を見やる。
血に濡れて、ひどい怪我を負いながらも、微笑みを浮かべたようなその顔を。
「俺は、お前を殺したくない。お前がいくら、人間を殺そうともな」
「俺を殺す、だと……お前にそんな力はあるまい」
「……そうかもしれない。だが、お前にももう、俺を殺すような力はない。それに、殺意もない……」
雷燕ははっとした。
山吹を斬った時、虚しさを覚えたのだ。
そしてあの頃に戻りたいと、本気で願った。
美しく歌えた、あの頃に……。
雷燕は、だらりと腕を下げた。
「……しかし俺は、人間を許すわけには行かぬ。でなければ、今まで何を憎んで生きてきたのか……何のために生きてきたのか、分からぬ」
千珠は、宝刀を構えた。
「ならば、その憎しみ全てをかけて、俺を殺しに来い」
「何だと」
「そのすべてを、俺が受け止めてやる」
千珠の真っ直ぐな瞳と風になびく黒い髪が、白い肌を覆う。
雷燕は無意識のうちに、千珠の姿にかつての自分を重ね合わせていた。人の中に生き、人を守ってきた頃の自分と……。
「生意気な口をきく」
雷燕は目線を上げ、まっすぐに千珠を見た。
その目には、今までのような虚ろな憎しみの色ではなく、かつての雷燕が持っていた黒曜石の如き輝きがあった。
「来い、雷燕!!」
二人の妖気が、ぶつかり合う。
それと同時に眩い黄金色の光が、空に立ち上った。
「地神天霊封印術!!急急如律令!!」
雷燕の撒き散らしていた黒い瘴気全てをかき消すような光が、あたりを一面を包み込む。
曇天の空も暗く荒む海も、荒れ果てた土地の全てを、浄化するように。
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