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二十二、人の姿へ

 夕暮れが近づいてくるに連れて、千珠の妖力は弱まる。毎度のことながら、この不便な身体に千珠はいつも舌打ちをする。  結局、昼間はずっと舜海と打ち合いをしていたため、身体はひどく疲れていたが、心は緊張を増し、感覚は冴えざえとしてゆくばかり。  妖力の消えていくさまと、太陽が沈んでいくさまはどこか似ていると、いつも千珠は思っていた。燦然と当り前にそこにあったものが、ゆるやかに消えていく……それが千珠の身にも起こるのである。  それは不安でもあり、寂しくもあり、けれども日が昇ればまた必ず戻ってくる力であるが、妖力を失って只の人間になるその一夜を、心待ちにしている瞬間があることにも、千珠は気づいていた。  只人になれば、この人の世に何の迷いもなく溶けこむことができるであろうに……ちらりとそんな事を思う日もあるのだ。  千珠はぼんやりしながら、自室の縁側に脚を投げ出して夕空を眺めていた。あの色が群青に変われば、この銀色の髪は黒く染まり、人になる。  今までは、舜海と二人で過ごしていたこの時間を、いつからか宇月、柊と三人で過ごすようになった。舜海が都へと修行に出たあの日から、すこしずつすこしずつ減っていった、舜海との逢瀬の時間……。  しかし今でも尚、満月の度にそのことを想う。  千珠が黒髪になるのを見て、舜海はいつも少し微笑んだ。  ――お前は黒髪やと幼く見えるな。普段は偉そうやから、余計にな。  そんなことを毎度言われた。そう言いつつ、自分を抱き寄せる舜海の手はいつも優しく、慈しみを感じた。  力のない不安を感じているせいか、舜海の霊気をいつも以上に強く逞しく感じたし、いつもよりもずっと舜海が欲しくなった。何事にも素直に応じる千珠を、舜海はいつも以上に大切に抱いてくれた。  板張りの冷たい床に敷いた舜海の法衣の上で、千珠の白い肌の上に黒い髪が流れる。薄い茶色に染まった千珠の目を見つめて、舜海は何度も千珠の名を呼んだ。  流れこむ想い……。千珠のことを愛おしむ舜海の想い。全身で千珠を欲する彼の気持ちが伝わってくるたび、千珠の身体はひたと熱くなった。  俺を見ろ、俺を感じろ……舜海は何度も千珠にそう言って、目を逸らすことを許さなかった。  舜海の黒い瞳に見下されていると、ぞくぞくと興奮した。あの強く黒い瞳が猛って静かに燃えている様を見ながら、抱かれるのが好きだった。  見つめられながら絶頂を迎えるたび、舜海は微笑んで千珠を抱きしめる。  卑猥な言葉を囁きながら、ぐったりとした千珠を虐め続けながらも、重ねてくる唇はいつも優しく、蕩けそうな程に心地が良かった。  素肌を重ねているだけで、涙が出そうなほどに、幸せだと感じた……。  千珠は目を開いて、記憶に沈んでいた自分を現実へと引き上げる。  ――駄目だ……いつもこうだ。  あいつがほしい。抱いてほしい。……どうしてもそう思ってしまう自分が嫌だった。  それを知ってか知らずか、舜海自身もそう思っているためか、彼はいつもその日は千珠の前に姿を現そうとしない。   会えば、お互い求め合う。  その関係に溺れるのは、宇月のことを想う千珠にとってもよくないことだ……互いにそう理解しているということも分かっている。  しかしこの夜だけは、どうしても舜海を欲する身体が疼く。  千珠は両腕をかき抱くと、うつむいて唇を噛んだ。涙が出そうなほどに、舜海の体温が欲しい……。  ――情けない……。 「千珠」  背後からの呼び声に、千珠は飛び上がって仰天した。涙目になって振り返り、目を見張る。  そこには、当の舜海が立っていた。どこか居心地の悪そうな表情をして千珠を見下ろしている。 「……舜」  呆けた千珠の声に、舜海はからりと笑う。先程まで本気で打ち合いをして、千珠に打ちのめされ悔しがっていた舜海は、湯浴みをしてきたらしくこざっぱりとしている。 「槐と風呂行ってきてん。あいつはもう、布団でおねむや」 「あ、そうか……」 「お前も眠そうやん」 と、舜海は千珠の隣に腰を下ろしながらそう言った。千珠はどきりとして、さっと顔を背ける。  そんな千珠の反応を、舜海は何も言わずに受け止める。何事もなかったかのように、舜海は続けた。 「今夜は俺も城に残る」 「……うん」 「おい、またいつものしんみり病か?全く毎度毎度、忙しいやっちゃな」 「五月蝿いな。お前に俺の気持ちが分かってたまるか」 「そらそうやな」  ははは、と舜海は気持よく笑い、暮れゆく空を見上げた。春先の夕風は少しばかり冷たく、ひんやりと二人の肌をかすめて吹き抜ける。 「佐為は?」 「さぁ……宇月が一緒におると思うけど」 「昼間あれだけ寝て、夜寝られるのかな」 「寝れへんやろ。まぁあいつもおれば、ここは安全なんちゃうか?人の姿、晒すんか?」 「いいや……あまり多くの者には見られたくない。佐為にも……やっぱりな」 「そっか。まぁ、何がどこから漏れるか分かれへんし、そっちのほうがいいかもな」  千珠はちらりと舜海を見あげた。その目線に気づいた舜海も、じっと千珠の目を見つめ返す。明るい琥珀色だった千珠の瞳の色は、徐々に一段階暗い茶色へと変化しつつあった。  舜海は思う。  その目の色も、不安げな千珠の表情も、なんとも言えず美しい。手を伸ばせば届くところにいるその身体に、全身の細胞が触れたいとざわめく。  橙色に照らされた千珠の白い肌、銀色の髪は艷やかで、触れなくともその絹のような感触を覚えている。  肌に触れれば、千珠がどんな表情をするのか、声を出すのか、はっきりと目に浮かぶように覚えている。 「……千珠」 「……ん?」 「綺麗やな、お前は」 「……そんな事言うな」 「あっさりお前を抱けていた頃が、懐かしい」 「え……」  苦しげな表情をした舜海が、ため息をこぼすようにそう呟いた。千珠はどきりとして、息を呑む。 「……お前に触れたい。今も」 「舜……」  ぎゅっと握った拳を、舜海は膝の上に置いて大きく息を吐いた。必死で葛藤と戦っている様子が伝わってくる。 「俺もだよ……」 「……」  うつむく千珠の横顔を、舜海はじっと見つめていた。長いまつ毛が、頬に影を落としている。 「でも……駄目なんだろ。もう、お前は俺を抱かないんだろ」 「……そうやな」 「俺が欲しいと言っても?」  千珠の泣き出しそうな顔と切なげな声に、舜海の理性がぐらりと揺らぐ。目眩がするほどに美しい表情を浮かべる千珠から目を逸らして、なんとか耐え忍ぶ。 「……ああ、そうや」 「お前も、俺を抱きたいだろう?」 「……そう言われると……」 「どうなんだよ」 「そら……まぁな」 「でも……駄目なんだな」  千珠はもう一度舜海を見つめた。諦めの色の浮かんだ、なんとも言えず淋しげな目つきだ。舜海までも泣きたくなってくるほどに、千珠の目つきは訴えかけてくるものがあった。 「千珠……。俺……」 「お前はもうすぐ青葉の寺へ行くんだ。山吹を連れて」  急にきっぱりとした口調になって、千珠はそう言った。舜海は驚いて、顔を上げる。 「そうだろ?」 「あ、ああ。まだあいつから承諾はもらってないが、もうひと押しっちゅうとこやな」 「俺も、宇月との未来を考えたい」 「それはあいつと夫婦になるっていうことか?」 「……光政に、そうしてはどうかと、予てから言われている。宇月を不安にさせるなと」 「そっか。でも、お前かて宇月に何もしてへんわけじゃないやろ?」 「……能登から戻ったとき、一度だけ宇月を抱いたけど……」 「それ以来何もしてへんわけか?お前が?」 「どういう意味だ」 「よう我慢できてるな。あれから一年経ってるやん。宇月かて……」 「なかなか二人になる時間もないし、あいつに隙もないからさ。そういうことをしようとすると、やっぱり少し身構えられてしまうんだ。無理強いはしたくないし……」 「へぇ……」 「でも、いいんだ。それでも。あいつが笑って俺のそばにいればそれでいい」 「……」  舜海は目を伏せる。微笑ましい話であり、めでたい話なのだから笑って聞いてやりたかった。励ましてやりたかった。でも、その言葉も笑顔も、今は出せない。千珠はそんな舜海を見て、更に続けた。 「柊のことが落ち着いたら、俺もそうしようかと考えているところだ。……この国で妻を娶り、ちゃんとここに根を下ろすんだ」 「……おお、それが、いいな」 「でもな、舜……」 「ん?」 「やっぱり、俺はお前とも離れがたいんだ。お前が一生、俺のものならどんなにいいかとも思う……」 「え……」 「我儘を言っているのは分かっている」 「……」 「山吹を大切に想うのは俺も同じだ。でも……俺……」 「もういい、それ以上言わんでいい」  舜海は千珠がとつとつと語る言葉を遮った。千珠はまだなにか物言いたげにしていたが、ゆっくりと口を噤む。 「お前の気持ちは分かってるつもりや。どうしたらいいか分からへんっていう部分もな」 「……」 「それに、お前はこのいつものめそめそ病が出ると、そういうふうに俺に甘えたがるという癖も分かってる。一時的に、そういう気持ちが強まるだけや」 「……めそめそ病とかしんみり病とか……俺を馬鹿にしてんのか」 と、千珠はやや不服気な顔をする。舜海はそれを見て、微笑んだ。 「しっかりしろ、千珠。今だけや、その気持は。お前はちゃんと宇月を愛しているし、この先俺らはこの距離で、きっとうまくやっていける」 「……そうかな」 「お前が宇月に笑っていて欲しいというように、俺もお前には笑っていて欲しいんや」 「舜海……」 「だからそんな顔するな、阿呆」 「……五月蝿い」  千珠はぷいとそっぽを向くと、ぐすんと鼻をすすった。泣き虫やな、と舜海はまた笑う。 「……日が沈む」  藍色に染まりつつある空を見上げて、千珠はそう呟いた。きらりと宵の明星がきらめき、澄んだ夜空が広がっていくのを舜海も見上げる。  それにつれて、千珠の銀色の髪がみるみる黒色に変化していく。人よりも鋭い鉤爪が、するすると引っ込んでいくさまを見下ろしていた千珠の横顔に、さらりと黒い髪がこぼれ落ちた。  久方ぶりに見る人の姿に、舜海は見惚れた。  流れる艶やかな黒髪を腰のあたりまで垂らし、どこか心細げにこちらを見る千珠の姿は、えもいえぬ妖艶さを醸し出している。白い肌がより一層白く透き通るように見え、大きな茶色の瞳がうるりと揺れる。千珠はほんのり紅い唇を薄く開くと、「やれやれ、またこれだ」と言った。  淡い灰色の着物を着流しにしている千珠は、すっと立ち上がって部屋に入ると、唐紙をぴったりと締めた。朝まで開くことのないこの白く頼りない扉のそばで、千珠はしばらく佇んでいた。 「千珠」 「なんだよ」 「……お前はほんまに、美しい」 「何を今更」  千珠は弱々しく微笑み、部屋の隅に小さくなって座り込む。舜海はその前に片膝をついて、じっと千珠を見つめた。  抱きしめたい。唇を重ねたい……。いつもよりも儚げな千珠が、可愛らしくて仕方がない……と、舜海はこんなにも愛おしいものに触れられぬという葛藤に、ため息をつくことしかできない。 「……もうすぐ柊と宇月が来る。お前はどうする」  千珠は真剣に自分を見つめる舜海から目をそらし、そう尋ねた。舜海ははっとして、ようやく千珠から少し離れてあぐらをかいた。 「二人が来たら俺は忍寮の方へ行くわ。淳之介と約束がある」 「ああ……そうか。何をするのかは知らんが、若い奴に無理をさせるなよ」 「分かってる。ってお前とあいつらは大して歳変わらへんやん」 「あ、そっか。そうだよな……」 「あの浮丸っていうちっさい方の若者、なんか気になんねんけど……」 「……お前、意外と鋭いこと言うじゃないか」 「喧しい。やっぱなんかあんのか?」  千珠は昼前に佐為から聞いたことを、洗いざらい舜海に話して聞かせた。舜海は浮丸の弟、桐生実丸のことを見知っているらしく、表情を少しばかり曇らせて頷いた。 「あの子な。喋ったことはないけど、えらいちびこいんが二人おるなとは思っててん」 「そうなんだ」 「何でここへ来て、あんな顔をしてたんやろう……」  今度は舜海が、厩で見た浮丸の表情について話しをした。千珠は、はっとしたように目を上げる。 「あいつ、俺が夜顔を逃したって知ってるんじゃないかな」 「いやいや、あれはほんま一部の人間しか知らんことや。あいつが知るわけ無いやろ」 「でも、それなら説明がつくだろう?」 「まぁ……一理はあるが。気になるなら明日、話してみたらどうや。俺も立ち会ったるから」 「うん……でも佐為がいいって言うかな。あれは陰陽師衆のいざこざだから、自分が片を付けるって、強く言っていたから……」 「片を付ける前に話を聞くくらい、ええやろ。佐為もお前には強く出れへんねんから」 「今回はそうでもなさそうなんだよな……」  佐為がわずかに見せたあの嘲笑が、千珠の脳裏にふと蘇る。  ――一体何を考えているんだ、浮丸も、佐為も……。  その時、入ってもいいかどうかと尋ねる宇月の声がした。千珠がすぐにそれに応じると、宇月と柊が襖の向こうに現れる。 「あら、舜海さま」 「おお。今、浮丸のことを聞いていたところや」 「あぁ……そうでござんしたか」  柊は何も言わず、じっと室内の人間関係に思いを巡らせているようであったが、舜海がもう一度浮丸のことを宇月に話して聞かせているのを耳に挟みながら、柊は千珠のそばに正座した。  長い夜が始まる。  企てと疑心暗鬼に包まれた、長い長い夜が……。

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