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二十五、悪夢の終わり

 その時、涼やかな声とともに、白い霧がざあっと晴れた。  「白波雷光(びゃくはらいこう)!!急急如律令!!」  白く光る鋭い矢が、その者たちに襲いかかった。咄嗟にその場から飛び退いて避けた楓真と琴であったが、今からまさに千珠を犯そうとしていた草堂の背中には数百の細い矢が突き刺さり、大柄な身体がぐらりと傾いだ。 「うわ……っ」  どさ、と千珠の上に倒れこむ大柄な男の遺骸を避けることもできず、千珠はじたばたと暴れる。 「千珠!!」  舜海の声だ。千珠は思わず大きく息を吐いて、ようやくこの恐怖が終わることに安堵した。 「千珠……なんてことを……!!」  千珠の脚の間に倒れこんで絶命している男を見て、舜海が形相を変える。すぐさまその身体を脚で蹴り避けてやると、千珠を引き起こしてぎゅっと抱きしめた。  草堂が死んだことで、身体を戒めていた黒い荒縄の術は解けていた。しかし、痺れた体は言うことを聞かず、舜海にしがみつきたくとも、それはできなかった。だらりとした千珠の身体を、舜海は強く強く掻き抱く。 「千珠……!もう大丈夫やで……!怖かったな」 「う……うぅ……っ」  舜海の体温と匂いに、どっと涙が流れだす。舜海はぎゅっと千珠を抱きしめて、安心させるように声をかけ続けた。 「もう、大丈夫や……遅なってごめんな……、もう、怖くないから……」 「しゅん……俺……」 「大丈夫……」  ざ、と砂利を踏みしめて現れたのは佐為だった。  ちらりと目の端で千珠を抱きしめる舜海を見やってから、じろりと祓い人二人を睨みつける。  霧が消えていく。  水無瀬楓真は愕然とした表情で、一ノ瀬佐為を睨みつけた。一体なぜ、こいつは動けるのだ、と。 「……一体なぜ、こいつは動けるんだろうって顔してるな」  今まさに思っていたことを口にされ、楓真はぎょっとした。佐為は糸目をすっと開くと、恐ろしいまでに冷たい目で楓真を見据える。 「僕は浮丸をずっと見張っていた。今日の君たちのやり取りも、聞かせてもらった。この式にね」  佐為が人差し指を立てると、どこからともなく白い蝶がひらひらと現れて、その指先に止まった。そして、ぽっと小さな炎とともに消える。 「裏返った結界を解くのに多少手間取ってしまった。……よくも千珠にこんなことを」  ぶわ、と佐為の身体から冷たい霊気が燃え上がる。楓真と琴は目を瞠り、その圧倒的な力にじりりと後ずさる。 「能登の祓い人は、能登から出るべからずという勅令を無視したな。帝に替わり、お前たちを捕らえる」  佐為は張りのある声でそう言い渡すと、印を結んだ。しかし、すぐさま楓真は懐から何かを取り出して、地面に強く叩きつけた。  小さな爆発とともに、再び濃い煙が湧き上がる。 「縛道雷牢(ばくどうらいろう)!!急急如律令!」  すぐさま地面から金色の格子が生まれ、煙ごと覆うような巨大な牢が現れた。がしゃん、がしゃんと前後に大きな南京錠がかかり、もうもうとした煙を封じるように形をなす。 「立浪!!」 「黒城牢(こくじょうろう)!急急如律令!!」  佐為の呼び声に、立浪の声が重なる。金色の檻の上に、天空から巨大な黒い檻が降ってくる。ごぅん……という轟音とともに穿たれた黒い格子が、金色の格子の隙間を埋めるように地面に突き立つ。  もうもうとした煙と土煙で、あたりは一瞬真っ白になった。  しかし佐為はすぐに視線を巡らせると、「淳之介!来い!」と声を荒げる。 「は、はい!!」  北に向かい駈け出した佐為を追って、淳之介も闇の中へ消えていく。そんな様子を見ていた舜海は、千珠を抱き上げて牢の方へと歩を進めた。  立浪は印を結んだまま、牢の中をのぞき込んでいる。舜海もそれに倣うと、その中にうごめく影が見えた。しかし、一人だ。 「……女?」 「水無瀬の血のものやろう。能登の祓い人の中でも、最強域の呪術を使う一族や。その千珠さまの首の鎖……」 「あぁ」  震えながら舜海にしがみついている千珠の首にはまだ、鈍色の鎖が巻き付いたままだった。どうやっても取れないのだ。 「それは封印術の一種で、妖に強力な戒めを与え、自分の意のままに操るという非道な術や。考案したのは水無瀬の一族……その術で、こいつらは相当な妖を使役するに至った」 「なんてことや。千珠にもそんなことをするつもりで……?」  舜海は抱きしめた千珠の肩を、更に強く抱き寄せる。千珠が怯えた子猫のように小さくなって震えているのを見て、立浪は痛ましい表情を浮かべた。 「男は逃げたが、佐為さまはきっと捕らえるだろう」 「俺も出ようか」 「いいや、お前は千珠さまについていてさしあげろ。まだ夜は明けない。……本当に、人の姿になっておいでとは」  黒い髪を垂らした千珠の背中を見つめて、立浪はゆっくりと首を振る。 「……これを狙われるは、かなり危険や」 「……どっから漏れたんやろう」 「浮丸だ。その噂を確かめるために、青葉へついてきたんやろう。千珠さまの妖気が徐々に弱まっていくのを感じて、確信を得た。それをあいつらに伝えた……」 「そういえば浮丸は?」 「北側の城壁のそばで倒れているのを見つけた。淳之介がふん縛った」 「そっか……」  立浪が印を解くと、黒い檻が瓦解して消えていく。檻の中で意識を失っている女を見下ろし、立浪は改めて縛術をかけた。  金色の鎖に身体を縛り上げられた女が、かすかに呻く。 「舜海……」  ふと、千珠がか細い声を上げた。 「どうした?」 「ここにいたくない……どこか、よそへ……」 「ああ、そうやな。忍寮へ行こう」 「ここはもう大丈夫や。俺はこの女連れて、仕置部屋へ行く。そこに浮丸もおるからな」 「……分かった。なんかあったらすぐ呼べよ」  仕置部屋は、城の地下牢の上にある小さな部屋だった。そこから忍寮はすぐ裏手にあり、なにかあればすぐに駆けつけられる。  舜海と千珠が行ってしまうと、立浪は用心深くその女の前にしゃがみ込んだ。 「まったく、他国の城に攻め入った挙句、千珠さまを手に掛けるとは……。佐為さま、きっと容赦しいひんな」  うっすらと目を開いた女を見下ろして、立浪は片手で印を結んだまま言った。 「ゆっくり話し聞かせてもらおうか。もうすぐあの男も戻ってくるわ」 「……くそ」 「そこの相棒みたいになりたくなかったら、洗いざらい喋ることや。佐為さまは怖いぞ」 「……」  ふいと顔を背ける女を無理やり立たせて、立浪は千珠たちの去っていた方向へと、足を向けた。  煙がすっかり晴れ、しんとした夜の空が、ようやくはっきりと見えてきた。   その時、北の方でどぉん……と何かが爆ぜる音が響いた。

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