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四、蘇る記憶

 咲太を手伝って、畑の手入れを終えた二人は、側にある大木の木陰で涼んでいた。夕暮れ時のどこか涼やかな風が、二人の肌を撫でていく。 「よる、元気ないな。どうしたの?あの術使ったから、疲れた?」  口数の少ない夜顔を、咲太は心配そうに覗きこんだ。夜顔は空を見上げ、木に寄りかかった。 「僕、小さい頃の記憶があまりないんだ。藤之助は戦で親が死んだからだ、って言っていたけど……」 「それは俺も同じだよ」 「そうだね。……でも、さっき、見たことのない人の顔を、急に思い出したんだ……。どうしても、思い出せなくて」 「へぇ……」  夜顔はもう一度目を閉じた。白い色、赤い色、琥珀の色……なんだろう。とても、大切な記憶なのではないか……。  咲太はそんな夜顔の顔を心配そうに見ていたが、ふと、あぜ道を歩いてくる男の姿を目に止めた。 「藤之助さま!」  咲太は立ち上がって、藤之助に手を振った。一日の勤めを終えて、夜顔を迎えに来たのだ。 「やあ、お祖母さん、元気そうだったね」  藤之助は駆け寄ってくる咲太に笑顔を向けてそう言った。咲太は頷く。 「夜顔がね、不思議な術で治してくれたんだ!」 「術で……?そうか。このことは、みんなには内緒だよ。じゃないと、みんなが夜顔にお願いに来て大忙しになってしまうからね」 「でも、いい技だよ?」 「本当に大事な時だけ、ちゃんと使えるようにしないといけないからだよ」 「あ、そっか」  咲太は納得したのかしっかりと頷くと、夜顔を振り返った。夜顔はまだ、木の下でぼんやりと座っている。 「よる、元気がないんだ」 「そうか、疲れだんだね。もう連れて帰るよ」 「うん……」  藤之助は夜顔に歩み寄ると、手を差し伸べた。漆黒の大きな瞳が、藤之助を見上げた。 「帰ろう、夜顔」 「藤之助……」  夜顔は藤之助の手を掴んで、立ち上がった。背が伸びた夜顔の頭は、藤之助の肩の辺りにある。大きくなったな、と藤之助は思った。  少し不安げに夜顔が自分を見上げているのを見て、藤之助ははっとする。  記憶が、戻りかけている。  忘却術をかけ、封じてきた夜顔の幼い頃の罪の記憶。今日、霊力を使ったことで、少し揺らぎが出ているようだった。 「行こう、早く帰って休みなさい」 「うん」  二人は咲太と別れると、自分たちの家へと帰っていく。  藤之助は、夜顔に何を伝えるべきか、伝えないべきか、迷っていた。  全てを隠しておくのではなく、何かを彼に伝えるべき時が来た。そう感じていた。      + 「夜顔、少しは落ち着いたか?」 藤之助は夕餉の後、井戸端で食器を洗っている夜顔に声をかけた。手ぬぐいで手を拭きながら、夜顔は立ち上がった。 「うん、大丈夫」 「少し、散歩に行こうか」 「うん!」  藤之助の誘いに、夜顔は笑顔になって頷いた。  夜顔は夏の夜が好きだった。昼間とは全く違う顔を見せる、この里の自然を美しいと思っているから。  藤之助の少し先を歩きながら、夜顔は虫の音を聞いたり、そこここに生えている背の高い草に手を触れながら、軽やかに夜の道を進んだ。 「夜顔、何を思い出したんだい?」 「え?」  夜顔は立ち止まり少し表情を曇らせ、俯いた。藤之助はそんな夜顔の隣に立つと、川べりに座るように促す。  静かに足元を流れる川の音を聞きながら、二人はしばらく黙っていた。月の明るい夜だった。 「赤い石、白い色、琥珀色の目……それが見えたんだ」 「……そうか。他にもあるか?」 「大きくなったら、おいで……っていう言葉が聞こえた気がした」 「……そうか」  藤之助は静かにそれらを聞いていた。夜顔の中の千珠の記憶が、呼び起こされているのだ。 「ねぇ、僕は小さい頃どんな子どもだった?僕、どこから来たの?」  夜顔は藤之助の衣を掴んで、必死の表情でそう尋ねた。潤んで揺れる瞳が、夜の闇を映す。 「……私が初めてお前と会ったのは、お前がおそらく七つくらいの頃かな。お前は自分の名も知らず、言葉も知らず、私と出会った」 「え……?」  夜顔は、初めて聞く自分の過去の話に、驚愕の表情を浮かべた。藤之助は夜顔の手を握り、じっとその目を見つめながら話した。 「私はお前の両親を知らない。便宜上、戦で亡くなったと皆には伝えているが……実際は分からぬ。お前は私の兄上に連れられて、都へ来たのだ」 「……」  夜顔は泣きそうな表情のまま、黙って話を聞いていた。ぎゅっと、藤之助の手を握り返す。 「お前には昔、もっと強力な力が宿っていた。でもそれは、お前には必要のない、禍々しいものだった。それを抜き取って下さった方がいる」  夜顔の脳裏に、ぱっと白い色が浮かんだ。  その中に見えるのは、長い銀髪をした美しい男の姿だった。 「……せん、じゅ」  夜顔の呟きに、藤之助は息を呑んだ。夜顔は額に手を当てて、少し辛そうな顔をした。 「そう、その名。千珠さまという名の、半妖の青年だ」 「千珠さま……?はんよう?」 「その方は、人間と鬼の血を持っている方だ。とても強い人だった。だからこそ、お前の力を抜くことがお出来になったのだ」 「……僕の力……」 「夜顔、お前にも、妖の血が流れている」 「えっ……!」  夜顔は目を見開いた。徐々に、がたがたと身体が震え始める。藤之助はそんな夜顔の華奢な肩を、力を込めて抱き寄せた。 「恐れることはない。今のお前には恐ろしい力など宿ってはいないのだからね。皆よりも少し、力が高いだけのただの子どもだよ。咲太とも何も変わらない」 「……だから、今まで僕、あちこちで追い出されていたの……?」 「そうだね。こういう力は、自分で操れるようになるまで、とても時間が掛かるのだ。今のお前は、もう大丈夫だ。この里に来て、長いだろう?」 「うん……」 「その千珠さまと同じだよ。彼も、妖の血を持ちながらも、人を守り、人の世の中で生きている。お前とおんなじだ」 「……千珠さま……」 「彼はお前のこと、まるで我が事のように考えて、守ってくれたんだよ。だからこそ、今のお前がここにいるのだ。笑って、食べて、友だちもできて……私はお前がそんな風に変われるきっかけをくれた千珠さまに、とても感謝している」  藤之助はにっこりと笑って、夜顔の頭を撫でた。その笑顔に、夜顔も少し表情を緩めた。 「……なんで、藤之助は僕と一緒に来てくれたの?」 「……なんで、か。何でだろうなぁ……」  藤之助は少し遠い目をして、夏の星空を見上げた。 「……幼いのに過酷な環境にあるお前を見て、もっとこの子は幸せになれるはずだと思った。笑って欲しいと思った」 「それだけ?」 「ああ。それだけだよ。今、私はお前と静かに暮らせて、とても幸せだ。お前が楽しそうに笑っている姿を見る度、幸せだ」 「……」  夜顔は微笑んだ。藤之助は夜顔の頭に手を載せたまま、笑顔を見せる。 「千珠さまは、お前がもしこの力を必要と思うことがあったら、会いに来いと言っていたのだ」 「……力なんか、いらないよ……」 「そうだね。お前にはもう、必要ないものだ」 「でも……会ってみたいな。千珠さまという人に。顔、思い出したよ。とってもきれいな人だ」 「そう。とても美しい姿をした方だった」 「何で今まで、忘れていたのかな」 「……夜顔、私も変わった術を使うのを知っているね?」 「うん。あまり見たこと無いけど……」 「私にも、お前と似たような力がある。その力で、お前の記憶を封じている」 「……なんで?」 「幼いお前が、怖い夢を見ないように」 「……怖い夢?」 「ああ、そうだよ。怖い夢が嫌いだろう?」 「うん……」 「その禍々しい力は、お前を苦しめていたからね」 「ふうん……」  藤之助の話はどこか曖昧で、夜顔にはよく分からない部分が多かった。  しかし、今、夜顔の頭を占めていたのは、自分の力を抜き取ったという半妖の鬼のことだった。 「会ってみたいな……」 「え?」 「ぼく、会ってみたいよ。その人に。そしたら、もっと力をうまく使えるようになれるかもしれない」 「……そうだなぁ」 「どこにいるの?その人」 「青葉国というところだ。ここからは少し遠い」 「ふうん……」  青葉の国。聞いたことはあった。  十数年前の戦は、その国の功績によって終わったと聞いたことがあったのだ。 「夜顔、私はこの国を出ることはできないのだ。仕事もあるしな」  と言いつつ、本当は夜顔を連れて逃げている咎で、動きまわることができないのであった。藤之助は夜顔の気持ちを分かりながらも、そう言った。 「だから、お前を連れて行ってやることができないのだよ」 「うん……」  それに、夜顔が里を出てしまえば、この力を誰かに察知される可能性もあった。それは藤之助にとっては、何よりも避けたいことだ。  心優しい夜顔が再び武力として利用されることが、恐ろしかった。 「分かった……」  目に見えて残念そうにする夜顔の頭を撫でながら、藤之助は少し迷ってもいた。  千珠に伝えたい感謝の気持と、二人を合わせやりたいと思う心もあった。  しかし慎重な藤之助にとって、それは叶わぬことだとも分かっていた。  夜顔を育てていくことは、兄の犯した罪を贖うことでもある。  自分を生かしてくれた現陰陽師棟梁、そしてかつての親友でもある藤原業平と、そして他ならぬ千珠との約束だ。 ――ごめんな、夜顔。私には、お前の願いを叶えてやることはできない。  藤之助はすっと立ち上がって、夜顔に手を差し伸べた。  にっこり笑って手を握り返す夜顔を立たせると、二人並んで夜の散歩を続けた。  ずっと、この平穏が続けばいい。  ここで、静かに暮らしていければ何より幸せだ。

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