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五、藤之助の咎

 一週間、何事も無く平穏に時が過ぎたある日、夜顔は走っていた。今日は、夜顔の医術の師匠である水国が里に戻ってくる日なのである。早く水国に会って、新しい医術のことを聞きたかったのだ。 「先生!おかえり!」  がら、と診療所の扉を開くと、荷物を解きかけている水国が顔を上げた。ほこほこと顔をほころばせると、夜顔に手招きする。 「おお、夜。よう来たな」 「先生、勉強はどうだった?」  草履を脱いで診療所に上がりこむと、夜顔は意気込んで水国に状況を尋ねた。水国は苦笑して首を振る。 「それがなぁ……隣の里では今、ちょっとした病が流行っておる。結核にも似た咳が続き、皆どこか生気がない……。直接命に関わるようなものではない様子なのだが……なんだろうな、里全体が暗くなって、どこか人の心も荒み始めていた。この里に、ああいったことが起きなければいいのだが」 「咳……?」  水国から聞いた病の特徴は、先日咲太の祖母の様子と似ていると感じた。夜顔は少し難しい顔をしていたが、思い切ってそのことを水国に話した。  夜顔の話を聞いて、水国は少し表情を険しくした。 「影、か……ふうむ。お前の気で、治ったんだね?それ以降変わったことは?」 「あれから毎日様子を身に行っているけど、おばあちゃんは元気だよ」 「なるほど。お前に見えた影……ということは、これは霊障かもしれないな」 「れいしょう?」 「妖怪や悪霊のたぐいが引き起こす病のことだ。じわじわと人の心を蝕む、恐ろしい病の一つだよ。お前には見えるんだな」 「うん……見えた」  水国はばたばたと再び出かける支度をし始めた。夜顔が目を丸くしていると、水国は服を着替えながら言った。 「藤之助殿は今日はどこに?」 「今日は家にいるよ。今日は祭だから、稽古もないからね」 「そうか、今すぐ会いに行こう。お前もおいで」 「うん」  水国と連れ立って、夜顔は早足に家に急いでいた。水国は峠道を歩きながら、夜顔にこんな話をした。 「都にはな、こういった霊障を起こさぬため、帝を守るため、幾重にも結界術が張ってあるのだ。特に都のあるあの土地は、かつてから鬼門が開きやすい場所としても警戒されている。鬼門、って分からないか。……怖いものがどんどん出てくる門のようなものだ。そこで都を守っているのが、陰陽師衆という特別な力を持つ人間たちなのだ。お前や藤之助とも似た力を持っている者たちなのだよ」 「おんみょうじ……?」 「そう。そこへ行けば、そういった軽い霊障くらいからなら里を守れる程度の御札をもらえると聞いたことがある。ここ数年、どうもこのあたりの空気も不穏だ。都へ行って、話を聞いてきたい」 「みやこ……かぁ。なんで藤之助に会いに行くの?」 「夜顔、お前を連れていきたいのだ。お前のその力、きっと何かに役立てるはずだ」 「本当?」  夜顔は顔を輝かせた。この里から出たことのない夜顔にとって、里の外へ出るということはとても魅力的なことに思えた。 「藤之助に伺いを立てに行く」 「うん!」  夜顔は足を速めると、水国の一歩先をすたすたと歩いた。 「駄目です。都には、行ってはならない」  開口一番、藤之助は険しい顔でそう言った。水国と、その横に座る夜顔は即答する藤之助に驚いた。 「都にゆくことだけは……許すことはできない」 「しかしな……夜顔の強さがあれば、わしの護衛にもなるし、医学を学ぶ機会にもなる。どうだろうな、わしが責任持って連れ帰るから」 「……駄目なんです。都へはもう二度と行かないと、誓ったのです……」  藤之助の表情が、どんどん硬くなっていく。夜顔は不安げな表情を浮かべながら、水国と藤之助を見比べていた。  何やら事情がありそうだということを悟った水国は、夜顔を見やるとこう告げた。 「ちょっと、多喜ばあさんの様子を見てきてくれるか?藤之助と久しぶりにゆっくり話がしたいのでな」 「え……?うん……」  夜顔は尚も不安げな顔をしていたが、水国に言われてのろのろと立ち上がった。草履をつっかけて家を出て行った夜顔が、たたっと走っていく足音が聞こえて遠ざかっていく。  水国は一息つくと、目線を下げて正座している藤之助をじっと見つめた。 「そろそろ……お聞かせ願えるかな。ずっと気になっておった。お前たち二人のことがな」 「……」 「何があった。なにゆえ、陰陽師のお前がこんな田舎暮らしをしておるのだ」 「……!」  藤之助が弾かれたように顔を上げた。水国は穏やかな顔のまま、頷く。 「私には分かる。陰陽師とは共に医術の修行をしたこともあったからな。何か事情があるのだろう?……私だって、夜顔は可愛い。あいつの腕も見込んでおる。今後あいつを育てていく上でも、知っておきたいのだ」 「……どうしても、お話ししなければなりませんか」 「……難しいか」 「私は……夜顔に、平穏な暮らしをさせてやりたいのです。穏やかで、笑顔の絶えない、ごくごく当たり前の生活を」 「……分かっている。しかし、夜顔の気は歳を増やすごとに強くなってきておるのがわしにも分かる。このまま、何も知らせずに育てていけるのかと、心配になる」 「……」 「何より、お前がそれを抱えて一生生きていくことができるのかと、心配になる」 「え……」  水国は微笑んだ。 「夜顔をお前が本当に大切にしているのが分かるよ。しかし、藤之助はたまにとてもつらそうな顔をするね。何か背負いきれないものを抱えているのではないか、ずっと心配しておった」 「……」  藤之助は俯いた。水国が、興味本位で自分たちの過去を暴こうとしているとは思っていない。  しかし、これを誰かに言ってしまうことで、自分の背負うべき咎を軽くしてしまうのではないかということが、藤之助にとっては不安だった。  夜顔が殺めてしまった命の分まで、自分がその咎を背負わなければならないと、藤之助は思って生きてきたのだ。 「夜顔とて、一生この里で暮らしていくことができるわけではないかもしれぬ。お前だって、先に逝ってしまうのだよ。分かっているだろう?」 「……はい」 「私は更にお前よりも老い先短い。少しぐらい、この爺を頼ってくれてもいいのではないか?お前が知られたくないことは、きちんと墓場まで持っていく。気軽に話せばいい」 「……水国殿」  藤之助が初めて顔を上げた。水国の笑みを見て、心が揺れる。 「少し、考えさせてください……」 「分かった」  水国はよっこらせ、と立ち上がった。 「では、多喜の様子を見てくるよ。夜顔のお陰で、霊障より守られたらしいのでな」 「ああ、あの……」 「夜顔には、わしに見えないものが見えるのだからな。素晴らしい力だ」 「……」  藤之助は唇を真一文字にして、また目を伏せた。水国は何も言わず、藤之助の家から出て行った。

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