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六、決意

 その晩、夜顔はどこかおずおずとした様子で帰宅してきた。昼間、いつもと様子の異なった藤之助のことを気遣っているように見える。 「おかえり、夜顔」 「ただいま……ねぇ、怒ってるの?」 「え?」 「僕が都に行きたいなんて言ったから、怒ってる?」  藤之助は浮かない顔の夜顔を見て、苦笑した。 「いいや、怒ってないよ。……そんなに、都に行きたいのか?」  夜顔はちいさく首を振る。そして、ぽつりと言った。 「僕……本当は都よりも青葉の国に行きたいんだ。そこに、千珠さまがいるんでしょう?」 「……」 「都に行く途中にあるんでしょう?青葉の国。途中まで先生と一緒に行けたらいいのかなぁって、思ってたんだ」 「……まぁ、そりゃあ。ここからならば通り道ではあるがな」  夜顔は正座をすると、いつになく真剣な表情で藤之助を見上げた。 「藤之助に迷惑はかけないから、行かせて欲しいんだ。会いたいんだよ」 「……会ってどうするつもりだい?」 「分からないけど……あの人には、どうしてもお礼を言わなきゃいけない気がするんだ。僕は元気だよって、幸せだよって。医術を学んで、人のためになってるよって……知ってて欲しいんだ」  夜顔は膝の上で拳をぎゅっと握りしめ、その拳を見下ろしている。藤之助は静かにそんな夜顔を見ていたが、ふう、とため息をついた。 「お前がそんなに熱心に頼みごとをするなんて、初めてだな」 「……うん」 「分かったよ。水国先生には、私が話をしてみよう」 「……本当?」  夜顔は、顔を上げた。その顔から、みるみる嬉しさがこぼれ出すように表情が崩れる。 「ああ、でもまだ、誰にも言っちゃいけないよ。咲太にもだ」 「うん!」 「私は今から先生のところに行ってこよう。お前はここで大人しくしておいで」 「うん、先生に頼まれた薬作り、しておくね!」 「ああ、じゃあ。行ってくるよ」  藤之助は立ち上がって、すれ違いざまに夜顔の頭をぽんと撫で、家を出た。  夜顔はうきうきとした表情で立ち上がると、土間に干していた薬草をむしろごと座敷へ持って上がり、それらを丁寧に煎じ始めた。 +  藤之助がやって来るのを、水国は待っていたらしい。すぐに診療所の戸を開き、藤之助を招き入れる。  そして、人の声の届かない家の奥の診察場へ藤之助を通すと、そこで茶を振る舞った。  暖かい湯のみを両手で持ったまま、しばらく藤之助は黙っていた。水国も何も言わずに、自分の文机の上を見ている。しばらくの沈黙の後、藤之助が深く息をした。 「私たちは、咎人です。夜顔は十年前、都で多くの人を殺めてしまった」 「……そうか」 「夜顔と初めて出遭った時、彼は言葉もほとんど介さない獣のような子どもでした。……とてつもない妖力を持ち、その力を利用するために連れてこられた子どもでした。私の兄によって、武力として……帝を殺し、都を破壊するために」 「……」 「名もなく、ぼろぼろに汚れて、泣きながら人を恐れ、恐怖のために人を殺す、そんな子どもでした」  水国は何も言わずに、じっとうつむいて話をする藤之助の声を聞いていた。藤之助は目を閉じた。 「私は、そんな夜顔に名を与え、人らしく振る舞えるようにと言葉をかけ続けました。少しずつ、少しずつ、夜顔は心をひらいてきた。しかし、兄は夜顔を武力としか見ていなかった。そして、そんな兄に私は逆らえず、何度も夜顔を戦地へ送り出してしまった。……しかし、そんな夜顔のことを気にかけてくれる方がもう一人いたのです……。それが青葉の国にいる、半妖の鬼、千珠さまでした」 「……ほう、かの有名な」 「彼は、自分と同じ境遇の夜顔を哀れに思ったのでしょう。その禍々しき力を自分が引き受け、人として生きることができるようにと、私に夜顔を託したのです。私の命が尽きるまで、夜顔を育て守っていくことが、私に課せられた咎だと言って。……それに加えて私は、実の兄を止められなかった自身への罰でもあると思っていた」 「なるほどな」 「夜顔との暮らしは、罰や咎などという苦々しいものではなかった。私は、とても幸せでした。段々と夜顔が人らしくなり、笑顔を見せて……あなたという師匠を得て、咲太という友を得て……まっすぐに成長していってくれていることが、何よりも嬉しい。そういう幸せを感じると共に、あの時失われた命を思うと、苦しいのです」  藤之助は口をつぐんだ。湯のみを握り締める手が、微かに震える。 「何をのうのうと、笑って暮らしているのかと。あれだけの殺戮を犯して……何故こんな平和な場所で、幸せを感じているのか、と」 「……」 「あの子には、何も知られたくはなかった。でも、治癒の術を使うときに、私のかけていた忘却術に緩みが生じたらしく、夜顔の中でかすかな記憶が蘇りつつあるのです。それは、千珠さまの記憶です。彼と最後に交わした言葉が、夜顔の中で蘇っているのです。今、夜顔は千珠さまに会いたいと心から望んでいる。きっと、あの方と会うことで何か自分の……根の部分を取り戻そうとしているような気が致します」 「でも事実を知れば、夜顔は心を病むじゃろうな……」 「はい……。きっと千珠さまは、無碍に真実を知らせることはなさらないと思います。……しかし、あの方とお会いしてしまえば、夜顔の中で何かが変わることは必至。だからといって、あれだけ頼み込んでくる夜顔の願いをすげなく退けることも苦しい……」 「……そうか」 「あの子は、このまま大人になっていくことはできないでしょう。いつか歪が生まれ、いつか苦しむ時が来るのなら……それが今であっても仕方が無いと、思ったのです」  藤之助は顔を上げた。じっと苦しげな瞳で、水国を見る。 「……私はどうしたらいいのでしょうか。夜顔を、どうしてやればいいのでしょう」  すがるような目線に、水国は目を閉じて、茶をすすった。一息つくと、水国は言った。 「わしと共に都への道すがらを共にし、夜顔を青葉へ送り届けてやろう。そして、また帰り道で連れ帰ろう」 「……」 「ほんの数日のことになるがな。夜顔の思いは強い。これを拒み続けるのは、不自然じゃ」 「……はい」 「思い出したらその時じゃ。脳みそが抱えきれぬことは、思い出さないように人体はできとる。……もし夜顔がそれを思い出すとしたら、それを抱えるだけの器ができたということになる。痛く、苦しい作業になるが、夜顔にとってそれは試練……我々が支えてやっていくのが道理じゃ」 「……はい」 「そしてそれこそが、お前に課せられた試練であり、咎じゃろう。夜顔がそれを全て受け入れ、抱えていく覚悟が生まれれば、お前が、あの子の代わりに何も苦しむことはないのだから」 「……」  藤之助は俯いた。ふうっと深く息を吐き出して、肩を落とす。 「そうかも……しれませんね」 「藤之助、しっかりせぇ。都へ入れぬお前の代わりに、夜顔を青葉へと連れて行ってやる。そして、どうあっても連れ帰る。帰ってきてからのことは、分からぬがな」 「はい」 「でもお前は、しっかりとここで待っていてやらねばならん。夜顔の親としてな」 「はい……勿論です」  水国は藤之助の肩を力強く掴んだ。その手に、藤之助は顔を上げた。  水国は微笑んでいた。 「見守ってやろうじゃないか。あの子ももう十七だ。……わしもあの子を孫のように思っておる」 「先生……」 「会わせてやろう、千珠様に」 「はい……!」  藤之助は意を決したように、そう返事をした。何度も力強く肩を叩く水国の手を信じて、夜顔を行かせることに決めた。  青葉の国へ。  千珠と夜顔を会わせるために。  

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