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十五、困りごと

 夜半過ぎ、舜海は青葉の寺に帰ってきた。  かなりの酒を飲んだのか、顔は赤く体中から酒の匂いを放ちながら帰宅した舜海を、山吹は迷惑そうな顔もせずに迎え入れた。 「夜顔は?」   玄関先に座り込んで草履を解きながら山吹に尋ねると、山吹は珍しくほわりとした笑顔を見せた。 「もう、寝ましたよ。可愛らしい子ね」 「そうなんか?お前がそんなこと言うの、珍しやん」 「だって、見た目によらず幼くて素直で、可愛かったわ」 「言葉を覚えたのが遅かったから、成長が遅いんんかもしれんな。千珠は?」 「お堂で待ってるって」 「そうか。さて……どうするかな」 「お水、持って行くわ」 「おお、すまんな」 「酒臭いって、文句言われるわよ」 「……」  舜海は裸足で、板張りのひんやりとした廊下を歩きながら、袖を抜いて腕を組んだ。  法堂へ続く回廊から、霞かかった下弦の月を見上げる。法堂の扉は開いていて、中からぼんやりとした蝋燭の灯が見えた。  中を覗くと、本尊の前に千珠が座り込んでいる。 「酒臭いぞ」  近寄る前からそんなことを言われ、舜海は吹き出した。山吹の言ったとおりだ。 「すまんすまん。今、山吹が水もってきてくれるから」 「まったく……。仲良くやってるじゃないか」 「まぁな。ええ女や」 「そうだな。今夜も夜顔が世話になった」 「……あいつ、どうや?」  千珠は本尊を見上げてため息をついた。なにか悩んでいる時の千珠の顔だ。 「……過去を知りたいと言ってきた。俺なら知ってるだろうってさ。藤之助は教えてくれないんだそうだ」 「藤之助のやつ、どえらい仕事を押し付けてきたもんやな」 「いずれ言うつもりはあるんだろうが……俺からどこまで話したものか」 「そうやなぁ……」 「千珠さまからお伝えしたほうがいいのではないですか?」 「うわ!!」  いつの間にか側に座っていた山吹に驚き、千珠は飛び上がった。盆に水の入った器と茶の湯の準備をして、山吹はすぐそばに正座しているのだ。 「いつ来た」 「先程から」 「……忍はやめても気配を消す癖は治んないのか?」 と、千珠は山吹から湯のみを受け取りながらそう言った。 「お気づきにならないなんて、よほどお困りのようですね」 「……」  千珠が口をとがらせて黙りこむと、舜海は大笑いをし始めた。 「あはははは、一本取られたな、千珠」 「五月蝿い」  山吹から水を貰うと、舜海はそれを一気に飲み干した。ふうと息をついて、山吹を見る。 「ほんで、お前はどうしてそう思ったんや」 「……苦しい過去を乗り越えることのできたあなたの言葉なら、夜顔に伝わるような気がします」 「……過去か」 「あなたがどう生き、どうその罪と向き合ってこられたか……その想いがあるからこそ、あなたは夜顔を助けたのでしょう?」 「……そうだな」 「だからこそ、千珠さまからお伝えするのが良いかと……。失礼、でしゃばった真似を」  たくさん喋りすぎたことを悔いるように、山吹はそっと自分の口を押さえた。千珠は首を振る。 「いや、お前の言うとおりだ。……山吹にそんなことを言われるなんて、びっくりした」 「……あなたについてまわることが多かったですから」 「しかし、よく喋るようになったじゃないか」 「大きなお世話です」  感心したようにそんなことを言う千珠に、山吹は無愛想な言葉を残して法堂を出ていった。ぎぎ……と重い扉が締められる。 「俺も、山吹の言うとおりやと思うな」  舜海も茶を一口すすると、そう言った。千珠は掌を暖めている湯のみを見下ろしながら、頷く。 「そうだな……」 「国へ戻れば藤之助がちゃんとまた話をするやろ。お前はお前の言葉で伝えてやれ」 「うん……」 「なんや、自信ないんか」 「いや……夜顔、よく笑って可愛いんだ」 「ほう」 「あの笑顔を……消してしまわないかと思うと、ちょっとな」  千珠はまた、本尊を見あげた。くすんだ金色の千手観音像が、静かな眼差しで千珠を見下ろしている。 「お前かて、一時期はどうなることかと思ってたけど、よう笑うようになったやん」 「俺か?」 「ああ、そうや。泣いてばっかりだったお前が、この国を支えて、都を守って、皆に愛されて……俺はそんなお前をずっと近くで見てきたつもりや」 「……」  千珠の琥珀色の目が、じっと舜海を見つめた。舜海は笑顔を見せて続ける。 「今や妻子ある立派な男になって、家族ができて、幸せやろ?」 「……うん」 「今のお前なら、大丈夫や。千珠」  舜海の手が、千珠の頭にぽんと載せられた。千珠はどき、と跳ね上がる鼓動を誤魔化すように不機嫌な顔をすると、その手を邪険にする。 「頭撫でるなよ!もう子どもじゃないんだぞ」 「はいはい、すまんな」  舜海は両手を顔の前で開いて、降参の姿勢を見せて笑った。 「でも、ありがとう……舜」 「おや、素直やな、明日は雪か」 「五月蝿い」  静かに微笑む千珠を、舜海は愛おしげに見つめていた。  もう何年も千珠には触れていない。二人の関係は、友人に近い形で落ち着いているように思えた。互いに守るべきものが増え、互いを良き相談相手として認め合ってきた。 「槐が祝言をあげるらしいで」 「えっ!そうなのか?」 「まだ聞いてなかったん?」 「……話ってそれだったのか。ばたばたして聞いてやれなかったな。夜顔をこっちに連れてきたりしていたから……悪いことをした」 「あいつ、千瑛殿と千珠のあとを必死で追っかけてきたみたいやで。子どもの頃は学問嫌いで落ちこぼれ気味だったが、今はすっかり神祇省の期待の星なんやて、佐為が言うてた」 「そっか……明日はちゃんと話さないと」 「夜顔のこと、気にしていたな。無意識の内に恐れた、と殿に話していた」 「……槐はあの時、夜顔の姿ははっきり見ていない。しかし、あれだけ大きな殺意をもろに浴びて狙われたんだ、身体は覚えているんだろうな」 「せやな……。あの二人は合わせへんようにしたほうがええな」 「ああ」 「明日は結界術の締め直しや。その間、夜顔はここにいさせよう」 「すまんな」 「ええって。今夜も、お前は城へ戻れ」 「でも……」 「あんまり夜顔にばかり気を向けていると、槐がやきもちやくからな」  そう言って、舜海は笑った。 「やきもち?」 「あいつは大人になったけど、心はちっちゃい槐のままや。もっと兄上と遊びたい、もっと兄上に認められたい、もっと一緒にいたいって、それだけを望んでる」 「そうか……」 「今日の宴での顔見てりゃわかるわ。ずっとお前を探してたし、昼間夜顔に刀を抜いたことを恥じていた」 「……気にしなくていいのに」 「ま、そのへんもようよう話してやれ」 「そうするよ」  千珠は立ち上がって、伸びをした。結っていない銀髪を揺らして、法堂を出ていく。 「術式は早朝だ。寝坊するなよ」  戸口に立って、千珠が舜海にそう声をかけた。舜海はひらひらと手を振って、「分かっとる分かっとる」と言う。 「お前も、考えすぎんとすぐ寝ろよ。……おやすみ」  舜海がそう言うと、千珠は横顔で少し笑って、すいも姿を消した。 「さてさて、どうなることやら……」  舜海の呟きが、がらんとした暗い法堂に響く。本尊の前にきっちりと正座をすると、舜海は懐から長い数珠を取り出し、目を閉じて合掌した。

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