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二十八、雨の予感

 その日、客人が青葉の寺へ行ってしまったのを見て、遊び相手がいなくなってしまったことを残念がっていた白蘭と白露は、珠緒と遊ぶべく宇月のところへとやってきていた。  しかし宇月はこれから仕事なのか、すでに黒装束に身を包み、珠緒の手を引いてどこかへ行こうとしているところであった。 「宇月様、お仕事ですか」 と、白蘭が音もなく現れることに驚くでもなく、宇月は振り返ってにっこり笑った。 「ええ。珠緒はいつものように桜姫さまの乳母殿に一緒に預けようと思っているでござんすよ」 「えー、珠緒もいないのですか」  不服気な白蘭を見て、宇月は笑った。 「兄様、私達も青葉の寺へ参りましょうか」 と、白露が兄の忍装束の襟巻きを引っ張ってそう言った。 「そうだなぁ」 「寺の方には夜顔様というお客人がおいででござんす」 と、宇月が夜顔の名前を挙げた途端、おとなしくしていた珠緒がぐずりはじめた。 「よるー。よるぅー」  珠緒は人形のようにくりくりとした美しい目に涙をいっぱいためて、宇月を見上げた。宇月は困った顔をして珠緒を抱き上げると、今にも泣き出しそうな珠緒の目をじっと覗き込む。 「今日は夕暮れ時までお寺には行かないと言ったでござんしょう?母さまはお仕事があるのでござんすよ」 「よるー、あそぶのー」 「まぁ珠緒、こういう時はしっかりお喋りを」 と、宇月は困った顔をしながらも微笑んで、抱っこしている珠緒の身体を揺らした。そんな様子を見ていた白蘭が口を開く。 「それでしたら、私達と共に青葉の寺へ参りましょう。珠緒はしっかりお守りしますから」 「え?……でも、子どもの足では距離があるでござんすよ?」 「私がおんぶして走りますので、すぐでございますよ。我々は忍衆なのですから」 「柊さまのお許しもなく、二人を城外へ出すわけには参りません。どなたかに、同伴をお頼みいたしましょう」 「ええー、大丈夫ですのに」 「ここで待っているでござんす。どなたかにお頼み申してくるでござんすからね」  宇月が珠緒を抱きかかえていってしまうと、白蘭は縁側にひょいと座って脚をぶらぶらと揺らし始めた。白露も兄の隣に大人しく座る。 「今日はつまらないなぁ。天気も悪いし、皆どこかへ行ってしまって」 と、白蘭がひとりごちた。 「そうですねぇ」  二人が曇り空を見上げて大人を待っていると、平服に身をまとった朝飛が珠緒を抱えて現れた。忍装束ではない朝飛を見るのは初めてである二人は、紺色の着物に白っぽい袴を身につけた朝飛を、まじまじと見上げる。 「青葉の寺に行きたいんやって?」 「あ、はい。ご足労おかけして、申し訳ありませぬ」 と、白蘭と白露は揃ってきちんと膝をつき、頭を下げた。忍寮では上役への礼儀は絶対なのである。 「別にええよ。たまが向こうに居るお客人と遊びたがっていると聞いたしな」  慣れない朝飛に抱きかかえられ緊張しているのか、珠緒はぴくりとも動かず人形のようであった。見かねた白露が珠緒を引き受ける。  馬を一頭引いて白露と珠緒を乗せ、三人は城を出た。  +  水国とはたった三日ほど離れていただけであったが、夜顔にとってそれはまるでひと月ほどの事のように感じられていた。今まではあの里で、藤之助と離れることなく暮らしていたから、頼る者のいない遠い土地でたった一人で過ごすという体験は、思いの外夜顔を疲れさせていた。  加えて、千珠から伝えられた真実は、夜顔の気持ちをずっしりと重くしていた。知りたいと願ったのは自分だったが、まさかこんなにも重い事実がのしかかってこようとは、夢にも思っていなかった。  奥座敷で休んでいる水国のそばで、夜顔はじっと暗い顔をしていた。水国は悟った。きっとすべてを、夜顔は知ってしまったのだろうと。 「夜」 「……はい」 「話を、したのかい?」 「……うん」 「どう思った?」 「……僕は、恐ろしいことをしたんだ。でも千珠さまは、医術を学んでそれ以上に沢山の人を助ければいいって、言ってくれた」 「うむ、そうだな」 「でも、でも……僕……自分が怖い。全く覚えてないんだ。覚えてないのに……そんな恐ろしいことをしてしまったなんて……!」  夜顔の目からぼろぼろと涙が溢れだした。自分の身体を抱きかかえるようにして、夜顔は身を小さくした。このまま消え入りたいとすら思った。  水国は夜顔に近寄り、ぎゅっとその肩を抱き、むせび泣く夜顔の背をさすってやった。 「泣くのを我慢していたんだね……よう頑張ったな、夜」 「うっ……ううっ……先生……ぼく……」 「今はめいいっぱい泣くといい。なぁに、咲太には黙っといてやる」 「う……」  咲太の名を聞き、また気が緩んだのか、夜顔は水国にすがりついて大声で泣いた。水国はしっかりと夜顔の背を抱え、その涙と恐怖、そして罪をすべて受け止めるかのように、じっとしていた。  夜顔の泣く声が、がらんとした部屋に響く。    そんな夜顔の声を耳にしながら、舜海は縁側に座っていた。佐為と槐も、そこにいる。  舜海と佐為は目を見合わせて、さもありなんという表情を浮かべていたが、事情を知らない槐は、怪訝な表情で奥座敷の方を見ている。 「……どうしたのでしょう」 「久々に会えて、嬉しかったんちゃうか」 と、舜海はあえて軽い口調でそう言った。 「夜顔は、幼いからな」 と、佐為も同調する。 「幼いといっても……もういい大人の体格をしているのに、ああ幼いというのも気になりますね」 何も知らない者から見れば、至極もっともな意見を槐は口にした。佐為はゆっくりと頷きつつ、「幼い頃に病気でもしたんじゃないの?」と適当なことを言う。 「はぁ。あの、……私、夜顔殿と一度試合(しお)うてみたいと思っていますが、よろしいでしょうか」  突然の槐の申し出に、舜海はぎょっとした。槐の目つきはすでに決然としており、舜海が何を言おうと聞かないであろうことが容易に見て取れた。  舜海がどうしようかと考えあぐねていると、佐為は腕組みをしたまま頷いた。 「ま、いいんじゃない?」 「佐為」 「若者同士、剣と剣で語り合うのが一番だろう。夜顔は言葉が拙いしね」 「……でも」 「ありがとうございます、佐為さま」  渋る舜海をよそに、槐は佐為に深々と頭を下げた。舜海の脳裏に、ふと千珠の顔が浮かぶ。  この二人が戦うということを、千珠は一体どう捉えるのだろうか。喜ぶはずもない。 「まぁ、彼が落ち着くのを待つんだな。久しぶりに身内の者と会えて、気が緩んでしまっているようだし」 「分かりました」  槐はこくりと頷いて、それでいいですよね、という目つきで舜海を見あげた。 「……まぁええ。あくまで、試合や」  諦めたように舜海はそう言った。大人の立ち会いのもとならば、おかしなことにはならないだろう。  しかしながら、舜海の見たところ、夜顔の剣技は槐を凌いでいるように見える。試合で負けたとして、槐はそれで気が済むのだろうか。  ぱらぱら、と小雨が降り始めた。   三人が空を見上げると、先刻よりもずっとその色は暗く重いものになっている。遠くで、雷鳴が轟く。重く湿った風が辺りを吹き乱し、着物の裾を翻した。 「……一雨きそうやな」  舜海は誰にともなく呟いて、懐手をした。

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