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二十九、土砂降りと鮮血

 白露と珠緒を馬に乗せ、その手綱を引いて歩いていた朝飛は、ぱらついてきた雨に頬を濡らされ空を仰いだ。山道を覆う木々から垣間見える曇天から、雨が滴り始めたのだ。 「雨やな……雨宿りするか?」 「もうすぐ着きますよ?」 と、白蘭が少し歩調を速めながらそう言うと、馬上で白露も頷く。 「そうか?ほんなら、少し急ぐで」  朝飛が歩幅を広げて歩き出すと、慌てて白蘭もそれに合わせて小走りになる。大人と子供の歩幅は違う。朝飛が一歩で行くところを白蘭は二歩だ。  ごろごろ……と雷の音が頭上で響き、白露の前に座って揺れている珠緒がびくっと身体を揺らす。白露は珠緒を安心させるように撫でると、 「怖くないよ、たま。もうすぐ夜顔様に会えるよ」 と、言い聞かせる。珠緒はくるりと白露を振り返ると、すぐにまた前を向いた。 「いやですねぇ、この湿った風」  白露は空を見上げながら、どことなく不穏な匂いのするこの風を嫌がった。朝飛も、どういうわけか胸騒ぎがしていたため、もう少しばかり歩幅を広げる。  雨の匂いに紛れて、よくないものの匂いがする。朝飛は緊張した。  子ども三人に、自分一人。  もし今、賊などと出くわしたらかなり不利だ。ここを青葉の国と知って喧嘩を吹っかけてくるものはもうほとんどいないけれど、他の国で悪事を働き、流れ流れてこの地に迷い込むものがいないとも限らない。  特に今は、千珠の御子を抱えているのだ。珠緒に何かあったら……と想像するだけで恐ろしい。  ぱらぱら、と少しずつ雨が強くなる。白露は首に巻いていた麻布を珠緒の頭に掛けてやり、雨露から守ってやる。白蘭は朝飛の脚に追いつこうと必死だ。  しかしその時、朝飛の悪い予感が的中してしまった。  ざざっと彼らの行く手を阻むものがあったのだ。目の前に現れたのは、三人の薄汚れた男たちだった。どの男の肌も埃や垢にまみれてどす黒く、ぼろ布のようになった着物を申し訳程度に肌に巻きつけている。ぎらぎらとした凶暴な目つきは、空腹と疲労によるものか。目の前に現れた子どもと、軽装の若い男を見て、追い剥ぎをしようと目論んだのだろう。 「ようよう、いい身なりの餓鬼どもを連れてるな、兄ちゃん」  道の真中に立っている一際大柄な男が、にやにやと笑いを浮かべながらそう言った。無精髭にまみれた顎を撫ぜながら、その男は一歩一歩近づいてくる。  白蘭が緊張して身構えるのが分かる。白露も、麻布で珠緒を隠しながらぎゅっと抱きしめて身構える。  朝飛は腰に差した刀にそっと手をかけると、じっとその男の濁った目を見据えた。 「盗賊か……。ここを青葉と知っての狼藉か」 「青葉?ああ、滅法強い千珠さまとかいう鬼のおる国か。ん?お前がそうなんか?違うよな」  男はじいっと、朝飛の健康的に焼けた小麦色の肌を値踏みするように眺めながらそう言った。ざざ、っと背後でも音がして更に二人、同じような身なりの男が現れる。朝飛ははっとして内心舌打ちをした。 「まぁでも、こんなとこにその千珠さまが現れるわけでもあるまいよ。さて、その着物と刀、置いていけ。この餓鬼どももな」  白露はぎゅっと珠緒を抱きしめて、微かに震え始めた。白露の不安を読み取ったのか、この場の緊迫した空気に刺激されたのか、珠緒がついに泣きだした。 「うわぁああん。あああん!」 「なんだ?もう一匹餓鬼がいたのか?」 「触れるな!!」  朝飛が馬の前に立ちはだかり、刃を抜いた。白金に輝く刀を前に、男が一歩後ろに引く。 「私が相手になろう。子どもたちは逃がしてくれ」 「朝飛様……」 と、白蘭が朝飛の背後で心細げな声を出す。朝飛は男を見据えたまま、「白蘭、情けない声を出すな」と、ぴしりとした声で言った。 「わぁあああん!よるぅ!!」 「五月蝿い餓鬼だな。おい、お前ら顔を見てやれ」  男が背後に立っていた仲間たちに指示を出すと、にやにやと笑いながら二人の男は馬に迫った。  白蘭は自分を何とか奮い立たせると、背中に指していた忍刀を抜き、その二人の前に立ちはだかる。しかし、まだ齢八つの白蘭に凄まれたところで怯むような男たちではない。男の一人が白蘭の腹を蹴飛ばした。 「邪魔だ、餓鬼!」 「うっ……ぐっ!」 「兄様!」 「うわぁあああん!」  その場に腹を抑えてうずくまった白蘭を見下ろして、白露が悲鳴を上げ、珠緒が更に火がついたように大声で泣きだした。はらり、と麻布が落ち、珠緒の顔かたちが顕になる。 「ほう……これはまた、なんと美しい子どもだ。まるで人形のようだな」  前方に立っていた三人が、珠緒に興味を示してさらに近づいてくる。朝飛は馬を宥めながらその三人の前に立つが、足元でうずくまっている白蘭のことも気がかりで仕方がない。 「この餓鬼……売ればいい金になるな。女なら、どこぞのお大尽様に……いや、男でもどっちでもいいか」 「触れるな!無礼者!」  朝飛は目を光らせて、盗賊の頭らしきその男に斬りかかった。一太刀浴びせ、さらにその横にいた二人にも袈裟斬りに太刀を閃かせた。 「ぎゃああああ!!」 「この野郎!やりやがった!」  血を吹き上げて膝をつく男たちを見て、背後の二人も刃を抜いた。ぼろぼろに刃毀れし、錆の見える日本刀がぎらりと雷鳴を受けて鈍く光る。 「白蘭、馬に乗って逃げろ!」 「……は、はい‥!」  朝飛は素早く白蘭を馬に跨らせると、思い切り馬の尻を引っ叩いた。馬は驚いたように嘶いて、猛然と速度を上げて走りだした。 「朝飛様!」 「早く行け!」  朝飛がそうこうしている間に、後ろの二人は同時に斬りかかってくる。朝飛はなんとか太刀でそれを受け止めるが、背後で倒れていたと思っていた盗賊の一人がゆらりと立ち上がり、朝飛の背中を斬りつけた。 「……っく……!」  焼け付くような背中の痛みに、朝飛は思わず膝をつく。その隙をついて、盗賊たちは一気に朝飛に斬りかかってきた。 「おっらぁああ、お前は死ね!お前ら、あの餓鬼ども追っかけて捕まえてこい!」 「応!」 「待て……!」   朝飛は歯を食いしばって三人分の太刀をなぎ払い、ひらりと身を翻して道を塞ぐ。だらだらと背中から流れる血が、白い袴を染めていく。 「行かせぬ……!行かせぬぞ!!」 「はっ、そんな血まみれで何を言う。ほら、とっとと追いかけてこい。止めは俺が刺しとくからよ」  盗賊の頭らしき大柄な男に指示され、二人は刀を納めて走りだした。盗賊頭の傷は浅かったのだ、朝飛は唇を噛んで、ふらふらしながら走り去ろうとする二人の前に両手を広げて立ちはだかる。 「邪魔なやつだな。あの餓鬼は何だ、お前の餓鬼か」  二人に殴られ、蹴られ、朝飛はその場に倒れ伏した。走り去る二人の足音が遠ざかり、目の前に盗賊頭の土に汚れた足が迫る。 「あの毛の色……眼の色……そうか、あれは千珠さまとやらの餓鬼なのだな?」 「……!」  男は卑しく笑って、朝飛の背中の傷を思い切り足で踏みつける。朝飛の悲鳴が、土砂降りになり始めた雨の下でくぐもって響いた。 「なるほどねぇ。それはそれは、さぞかし大事な餓鬼だろう。とっ捕まえて、利用できる……」 「やめろ……」 「城主を脅すか。それとも、千珠どのを脅すか……くっくっ……面白い」 「やめ……ろ」  ――千珠さまがようやく掴んだ幸せを……あの人の笑顔を……曇らせるな……  朝飛は砂利を掴んだ。  能登で交わした千珠との会話が、千珠の涙が、蘇る。  ――この地で得た幸せを……踏みにじるな…… 「……あかん……そんなこと……させへん……」 「はぁ?まあ何にせよ、お前はここで死ね」  盗賊頭が刃を抜こうと柄に手をかけた。そこから刃が現れるか現れないかのうちに、朝飛はぐっと自分の刀の柄を握り直し、目にも留まらぬ速さでその刃を振りぬく。 「……え。あ……」  朝飛の刃が、盗賊頭の両足首を切断している。 「ぎぃえやあああああ!!!」  世にも恐ろしい悲鳴を上げ、夥しい血を流しながら、盗賊頭の男は尻もちをついた。朝飛は刃を地面に突き立て、それに体重をかけながらゆっくりと立ち上がる。 「足が……足がァあああ!!」 「もう……歩けまい……そこでおとなしくしてろ……」  朝飛は身体を引きずりながら、ぬかるんだ山道を歩き出した。こんな身体で何ができるかわからないが、珠緒も白蘭も白露も、あんな盗賊に渡すわけには行かないのだ。  うまく逃げているといいのだが……。  背中から流れ出す血が、朝飛の歩いた後に赤い道を作る。呼吸が苦しい、目が霞む……これは、雨だけのせいではないようだ……。  朝飛はついに膝をついた。 「……せ……千珠さ……ま。か……しら……」  朝飛は泥濘んだ道に倒れ伏した。  容赦なく降り注ぐ雨が、山道に倒れる朝飛の上に、どうどうと降り注いでいる。

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