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 草の匂いと、風が運んで来る湖の匂いと……あとは、母の、俺と同じ狼の匂いが入り混じる。  しゃんと背筋を伸ばして、決してこちらを振り返らない匂い…… 「この辺りでよろしいでしょうか?」 「はい」  小さい頃は護衛騎士の制服を着ていたせいか、大人になってから見る母のドレス姿は馴染まない。  若作りと言うわけではないけれど、若く見える隙のないその姿を見ていると、引退したとは信じられないほどだった。 「では」  そう言って草地だと言うのにヒールを気にすることなく、数メートル先で俺の方へ振り返った。 「    」  ちゃり とひしゃげた鞘から長剣を引き抜くと、それを正面に構えて母へと向ける。  銀の滑らかな刃の筋の先に、無表情に立ったままの母が見えて……  ─────ギィン……  次の瞬間、長剣を握る腕に衝撃と痺れが走り、体を持って行かれるような勢いに思わず「ぐ 」と声が零れた。 「今度は吹き飛ばされませんでしたね、さすがでございます」  数メートル先でふわりと舞う紫色のドレスの裾は風が掻き混ぜただけのように見える。  けれど……  ビリビリと痺れを訴える腕を無視して長剣をぎゅっと握り直すと、「武器を手放してはなりません」と幼い頃に何度も言われた言葉を思い出す。 「未だ、剣先で地面を抉る癖が抜けていらっしゃいませんね、力で振り抜くのは悪癖でございます」  そう言った瞬間、再び腕に重い重い衝撃が走った。  『神の箱庭』と呼ばれるこの世界の五大王国の五人の王、全員から認められて称号を贈られた者がいる。  ────剣聖  一国だけが認めた、二国の王だけが認めた剣聖は歴史上何人かはいたけれど、五大王国すべてから認められた剣聖は俺の母ロニフただ一人だった。  王宮の兵士を募集した際に、当時まだ少女だった母は河原で拾ったのだと言う木の枝一本を持って現れ、そして最終的にその木の枝一本で集まった兵士候補を薙ぎ払ったのだと聞く。  剣聖を彩るただの眉唾話だと言うには、彼女が王宮騎士に採用されて以降、剣を象った王宮騎士のエンブレムが常緑の一枝に変わった事実があったため、人々はそれを眉唾だとは信じなかった。  実際はそれはただの噂でしかなく、真実は兵士候補を薙ぎ払った後に当時の王宮騎士団団長をやり込め、近衛騎士一団と乱戦を繰り広げて圧勝してしまったのだそうだ。  王の近衛達が木の枝を携えた少女に負けたと言う事実は名誉のために伏せられ、今に至る。  そんな母の携える大剣の前に立ち塞がるものは何もない と、幼い頃に兄からおとぎ話代わりに聞いていた。  聖シルル王国の誇りでもある母……けれど、実際その剣先がこちらに向けられた際の恐怖を知る者は少ない。

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