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 むやみやたらに尾を振ってはいけないとわかっているのに、自然と尾が振れてしまう。   「  はるひっ!」  そんなことありえないってわかっていたのに、入り口から外に向かって名を呼んだ。  怪我をして、意識を失ってきっと混乱していて間違えてしまったんだろうと思うのに、胸の奥から希望が溢れ出してくる。  それを例えるなら、幸せの匂いだ。  小さな頃から使う服も石鹸も匂い袋も変わっただろうけれど、そんなものでは変わりようのない香りがある。  ただただその匂いを嗅げば幸せになれる、そう思わせてくれるはるひの香りを俺が間違えるはずがなかった。 「  ~~ ~~……   」  鼻歌が止んで……ばしゃんって水を含んだ重いものが地面に落ちる音がした。 「はるひ」  もう一度呼びかけてみると、ひっ と息を吸い込む音と共に川べりにいた人影が動いてこちらへと駆け出してくる。  それはわざわざ確認したりする必要はなかった。  俺に向けて一直線に走り寄ってくるその姿は、明らかにはるひ以外の何者でもなかったからだ。 「クラド様っ!」  涙を堪えているのかわずかに鼻にかかる声は甘い甘いはるひの声だ。  やつれているのはすぐにわかったけれどそれでも四肢に欠損はなかったし、こちらに走ってくる姿はどこかを怪我しているようには見えない。 「  は   ……夢か?」  広げた腕の中にはるひが飛び込んできた瞬間、あまりの軽さにそんな言葉がつい漏れてしまった。  けれど、ぬくもりが確かにある。  いつも背に回されていた手が俺の体にしっかりと抱き着いて、小さな頭が胸にすっぽりと収まる。  はるひだ。  はるひだ! 「はるひっ!」 「はいっ! ……はい、クラド様……」  泣き声の合間に漏れた返事は確かに俺の名前を呼んだ。  そんなことはないと自分に言い聞かせつつも、もう二度と聞くことは叶わないのではと思っていた声が耳を震わせることに、膝の力が抜けてよたよたとみっともなくその場に崩れ落ちてしまった。  急にへたり込んでしまった俺にはるひは慌てたようだったが、しがみつくのをやめはしなかったし俺自身もわずかでも隙間ができるのが嫌だった。  支えてもらわなければ寝床に戻れず、歯がゆい思いをしている俺にはるひは笑顔を向けてくれた。  それはなんてことはない日常にあるいつも通りの笑顔で、こんな場所でなければいつも通りの生活を送っているんだと思ってしまえそうだ。 「まだ、熱があるみたいなんで休んでてください」 「熱?」  熱……と呟いて額に手の甲を押し付けてみた。  そこは涼しい場所にいると言うのにじっとりとした汗にまみれて、触れた一瞬は冷たいと思ったがすぐに追いかけてくるように熱が滲み出してくる。

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