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1.大晦(19)
衿も袂も裾もきちんと整えられ、帯もしっかりと結ばれて、遥の準備はできた。
遥は鏡に映る自分の姿を見つめた。
一分の隙もないこの姿を隆人がほどく。ほどかれて、抱きしめられて、遥の体は悦びに震えるだろう。
あのベルトの環が食い込んできていた。受けとめる体の重みや、腿に触れる隆人の体の乾いた温もりや、首筋をなぶる舌のうごめきなどが一気に体に思い出され、背筋がぞくりとする。いよいよきつく締め付けられて、苦しく切ない。
遥は高まりを散らすため、息を吐いた。
「帯を締め付けすぎましたか?」
則之が慌てたように遥の顔をのぞき込む。首を振った。
「違う。今日は一日じらされてたから、どうも堪え性がなくなっちゃってさ、勃っちゃったよ」
「今少しのご辛抱です」
宥 める則之の言葉に苦笑が浮かぶ。そんな遥に則之が反応した。
「どうなさいました?」
遥はまじまじと則之の顔を見てから答えた。
「俊介と違って、則之とは会話になるな。今みたいなことを俊介に言ったら、絶対顔を赤くしてうつむくか、聞こえないふりをするだろう?」
則之が困ったような顔をした。
「凰様、今宵はどうか鳳様のことだけをお思いください。この後のお時間は特に」
いさめられて思いだした。世話係は遥を凰として評価しているのだった。
「今の、減点か?」
探るような上目で見ると、則之が笑顔で首を振った。
「私ども桜木は遥様に不利なことは申しません。御恩あるお方にそのような仕打ちをしてもかまわぬと考えるような輩 は、主を持つ資格のない未熟者です」
肩から力が抜けた。
「いつもありがと」
「過分なお言葉、かたじけのう存じます」
則之の受け答えは隙がない。
遥はふうっと息を吐くと、顔を上げて宣言した。
「鳳様のもとへ帰る」
「かしこまりました。ご案内申し上げます」
深く頭を下げた則之が立ちあがった。
鳳凰の間は先ほどと変わりなく見えた。
ろうそくや行灯に照らされた室内。鳥籠の前の大きな一組の布団。その傍らで考えごとをするように軽くまぶたを閉ざしている隆人。違いと言えば鳥籠の隅と枕元にローションらしき容器が用意されていることだろう。
遥は隆人の前にまたきちんと正座して手をつき、戻ってきたことを報告する。
「ただいま戻りました」
隆人が無言で遥の手を取り、遥を鳥籠に導く。則之が次の間に下がり、襖は閉ざされる。
繰り返された同じ動作に、遥は時間が遡ったような感覚を味わった。
その瞬間、遥は奥歯を噛みしめた。
隆人に言わなくてはならないことがある。どうしても我慢のならないことが。
鳥籠の中で座布団を降り、隆人がもとの場所に戻るまで待った。そしてそんな遥のようすに隆人が訝しげにするのを無視して、畳に額を付けるほど頭を深く下げた。
「もう一つ言わせていただきたいことがございました。お聞きいただけますでしょうか」
隆人はすぐに答えない。遥は頭を下げ続ける。
「お願いいたします」
「許す。手短に言え」
「ありがとう存じます」
遥は少しだけ体を起こした。しかし顔は上げない。上げたくなかった。
一呼吸してから、口を開いた。
「わたくしを産んだ者のことについて、何もおっしゃらないでください」
隆人が問う。
「なぜ?」
「その者のことを聞くと、わたくしは平静ではいられなくなります。心をかき乱され、耐えられません。どうかその者のこと、お口にされないようお願いいたします」
「顔を上げろ、遥」
命じられてしまった。仕方なく隆人の顔を見る。隆人が真っ直ぐ遥を見据えている。
「時間は無限ではない。だが、お前はまだそれを考えたくはない――そう言うのか?」
隆人が何を言いだしたのかわからなかった。だが、確かに考えたくない。
両親の離婚から十数年たった今も許せないし、許したくもない。ただ無関係に暮らしたいのだ。この世にあの女が存在していることを忘れて。
母親の方から幼い遥を遠ざけ、大切な父の最期まで拒絶した。だから遥も忘れたい。
遥はうなずいた。
「はい。そのとおりです」
「わかった」
隆人が頷いた。
「そのことが今はお前の気持ちをいたずらに乱すだけなら、仕方ない。先に送ることにする」
力の抜けそうになる体を支え、再び深く頭を下げる。
「ありがとう存じます」
「だが、永遠にそのままというわけにはいかない。そのことは覚えておけ」
その言葉に顔を上げた遥の目は隆人の視線に射抜かれた。一瞬息が止まる。
この言葉は宣告だ。逆らうことは許されない。
「わかりました」
そう応じるしかなかった。
隆人が首を傾げた。
「これにて申し述べたきことはすべてか?」
「はい」
「よかろう」
隆人が背筋を伸ばした。その姿に遥も姿勢を正す。
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