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第4話 月と闇のボークスミェールチ

 嘘だ!  大佐がスパイなんて! 『彼は目に余る行動が多い』 「しかし、それは他の捕虜達の世話を頼んでいるからで」 『夜間外出もかい?』 「えっ」 『彼は独り、夜に寄宿舎から出て行くよ。これをどう説明するのか』 「それは……」 『スパイは公開処刑だ。だが、彼はドイツの英雄でもあるからね。外交を鑑みて形だけの軍事法廷にかけた後、国外永久追放にする方針だよ』  昼間の中将との会話を思い出して、居ても立っても居られなくなった。  そんな事はない。  心の中、何度も繰り返す。  けれど、もしも部屋にいなかったら……  うぅん、そんな事はない。  夜空を引っ掻いた三日月が真上に昇った今夜、大佐はベッドの中で休んでいる筈だ。  コンコンコン  ノックをするが返事がない。  気づかない程、熟睡しているのだろうか。  そっと、ドアを開いた。 「大佐!」  いない。  ベッドにも、部屋の中にも。 「私の証言だけでは彼を国外追放にできない。君を利用させて貰ったよ」  振り返る。 「どうしてっ」  貴方はどうして彼を追い詰めるんだ。  いいや、俺を。なぜ追い詰める。 「中将ッ」  月光に艷やかな黒髪が舞った。 「私にとって、彼が邪魔だからだよ。仕事の面でも、プライベートでも」 「なに言って」 「彼を国外追放にするのが、私のこの国での最後の仕事だ。私はニホンを永久に離れる」  アイスブルーの双眸が、月明かりに凍てつき煌めいた。 「私がニホンを離れる時は、君も一緒だ。九条君、君の事は気に入っているよ。故に私の子を生んで貰う。さぁ、祖国に戻ろうか……九条爽真」  この人は、俺の知っている優しい中将じゃない。 「離れろ、ソーマ」  背後。誰もいない部屋から声が聞こえた。  バリンッ  けたたましい音が響き、硝子が割れる。 「その男はロシアのスパイだ」  割れた格子窓、注ぐ月光、そして…… 「大佐!」 「アレクセイ・スミノフ。彼の本名だ。スミノフ家はロシア帝国貴族で、摂政も輩出している家系だ」 「気づいていたか。だから君は邪魔だ。シャルラッハロート ゼーラフ」 「影なき暗殺者=ボーク スミェールチに覚えて頂けるとは光栄だ」 「強がるな。切り札は私が持っている」  俺が!  大佐の足を引っ張っている。 「クッ」 「君の遺伝子強化は射撃だ。腕力で私にかなう訳なッ」  頬に一筋の鮮血が飛んだ。  拳の指に挟んだ金貨が中将……否アレクセイを掠めた。 「逃さない」  一瞬怯んだに過ぎない。再びアレクセイに捕らわれる。  しかし。 「動くな」 「なぜ」  月下、黒い銃口がアレクセイを捉えた。 「捕虜の貴様が銃を持っている」 「私じゃないよ」 「そうか……」  男は察した。  大佐の持つ銃が、俺の銃である事に。  拳で気をそらした刹那、床に拳銃を落として蹴った。それを大佐が受け取った。 「君達を祝福しない。私は死神(ボーク スミェールチ)。奪う者だ」  氷の眼差しが俺に注がれる。 「君を奪いに来る。君達の幸せをこの手で葬送する」  割れた窓に飛び込んだ彼の姿は闇に溶けた。 「大佐」  この金貨が俺を守ってくれました。大佐の金貨が……  そう伝えたかったのに。  俺の体はぎゅっと強く切なく抱きしめられていた。  大佐の熱い腕に……  あれ?  大佐のシャツからいつもと違う匂いがする。  薔薇の香り?

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