8 / 205

2章(5)

 そんなことを考えながら、自分が無意識に横浜市内の繁華街に向かっていることに気がついた。いつも使っている道だから、無意識に歩いていたらしい。  でも、運が良ければ知り合いに出会えて、今夜の寝場所が確保できるかも、と思い立つ。  尚紀は何人かに連絡しようと思い立ち、制服のポケットから携帯電話を取り出し、メールを開いた時だった。  不意に、ゾワッと何かが身体を駆け抜けた。  思わず背筋が伸びたが、すぐに立っていられなくなり、その場に膝をつく。  理由もなく「やばい」と警笛が鳴った。  尚紀は予感する。  何かが、くる、と。 「うわ……ぁ」  思わず身体が揺れ動き、口から悲鳴が漏れた。  何かは、波のようだった。  寄せては返し、さらに大きくなってまた迫ってくる。  それは、これまで経験したことがないぞわりとした感覚で、快感なのか不快なのかも、尚紀には判断がつかない。自分の内から何かがやってくる、という感覚だけがあった。  それが嫌に生々しくて、呼吸を整えるのが精一杯。背中に嫌な汗が伝うのがわかった。  耐えるように身を縮ませて、その波をやり過ごす。大丈夫、少し待てば治まる、という確信がなぜかあった。  それに耐えて、少し波が引いてから、尚紀は繁華街のビルの谷間に身を寄せた。すぐに動き出すことはできなかった。 「なんなんだ……これ……」  リュックを抱えてうずくまる。  自分のいきなりの体調変化に戸惑っていた。こんなこと、これまでなかったのに。一体自分の中で何が起こっているのだろう……。  少し休んで楽になったら移動しよう。もう諦めて家に帰ったほうがいい。誰も心配をしていないと思うけど、家で休んでいればこの不快感も次第に治るだろうから。  その間だけでも……。  だけど、問題が一つ。  家に帰るにはここから電車で一時間近くかかるのだ。果たしてそれまで体調が持ってくれればいいのだけど……と尚紀は心配になった。    にも関わらず、尚紀は次なる異変を察知する。  あ……? なんか変な匂いがする。  沸き立つような甘い匂い。  不快なものではないのだけど、こんな匂いを纏わせて、一体自分はどうしてしまったのだろうと、不安になってきた。こんな状態で電車に乗っても大丈夫だろうか……。  クンクンと制服の上から鼻を近づけるが、自分の鼻では嗅覚が馬鹿になってしまっているようで判別がつかなくなりつつある。でも、ひっそりと人目につかないように休んでいるにも関わらず、こちらに視線を投げてくる通行人がいるということは、この匂いは誤魔化すことができないくらい漏れているということなのかも……。  なんだろう、これ。  なんか身体が熱くなってきた。体温が上がっている? それともこの異様な事態に焦っているだけか。とりあえず、暑い。  自分ではどうにもならない、想定外の事態は収集のつけ方がわからず、確実に尚紀は焦り出していた。  ちょっとヤバい事態なのかもと、本能が警鐘を鳴らすが、残念なことにそれに呼応するように頭がポヤポヤした感じで、詰めて考えることができない。  頭が働かなくてもどかしい……。いや、もともとポンコツな頭なのだけど。  そんなことをぼんやりと考えていると、突然尚紀は手首を掴まれた。  それは、あまりに突然の行為で。 「ひゃっ!」  心臓を掴まれたかのように、身体がビクッと震え、思わず悲鳴が漏れる。    地面にうつむいていた尚紀が最初に見たのは磨かれた革靴。それを辿っていくと、スーツ姿の男。口に煙草を咥えている。  ……見知らぬ顔だ、多分。  イケメンなおじさん、という感想を持った。 「お前、こんなところで何してる」  どこか鋭い雰囲気を持ち合わせている。鈍い頭でもその声に鋭さと殺気を感じ、驚きと恐怖で、とっさに声が出なかった。  手首を掴まれたまま。気づいて力を入れてそれを振り切ろうにも、力が強くて敵わない。 「……」  その男は腰を下ろし、見上げる尚紀の顔をじっくり見た。 「可愛い顔をしているな……」  とっさにしまったと思い、顔を伏せた。  はやく立ち去ってほしい。  脳裏に緊急事態のサイレンが鳴り響く。  いや。さっき、無理をしても手首を振り払って逃げるべきだったと思っても、完全に後の祭りで、尚紀はその場から動けなくなっていた。

ともだちにシェアしよう!