9 / 156

2章(6)

 初動を間違えた。  尚紀は、ヤバいと焦った気持ちを知られたくなくて、その男を警戒した目で見つめ返した。  でも、本音は目の前の男が怖くて、言葉が出なかったのだ。  弁護士の兄よりも年上の印象。丹精な顔立ちにきっちりと着こなすスーツ姿は凛々しいが、どこか兄や父とは違っていて、鋭利な雰囲気。  表情から感情なんて読み取れなくて、尚紀はただ怖い思いでその男を見上げていた。  まさに、蛇に睨まれた蛙そのもので、声が出ない。  その男は尚紀を見た。楽しそうに唇を歪ませて、問いかけてくる。 「こんなところで、無防備に発情か」  いきなり飛び出た言葉が、本当に尚紀にとっては想定外で意外で。  素できょとんとした。 「……はつじょう……?」  それは「発情期」という意味の発情か?  自分の、この身体のしんどさは発情期なのか?  発情期って、こんなに不意打ちでやってくるものなのか?  疑問が湧いても、今の尚紀は答えを持ち合わせていないし、目の前の男には怖くて聞けない。    もし発情期だったら……?  オメガと判定されても、自分の身体の変化に無頓着だった。これからどんな変化が出るのか、少し怖いと思いつつ、直視するのも嫌で。距離を置いていた。  オメガと認めれば自分は居場所を失う。  そんな迷いがあったのだと思う。  学校のカウンセリングに出たといえば、家で瑞江からなんて言われるか分からない。  尚紀はざっくりとしか知らなかった。  発情期のオメガがどうなるのか。  オメガの実母がどうしていたのか、幼かったから記憶にない。  オメガは、「発情期がくると男でも妊娠する」程度の知識だ。  男は口にしていた煙草を地面に落とすと、動けずに固まっている尚紀の腕を強引に掴み、立ち上がらせた。 「来い。付き合ってやろう」 「えっ」  思わず尚紀は抵抗する。何に付き合うの? これはマズイと警笛が鳴る。いやだ、離して、とその場合から動かない姿勢で拒絶を見せる尚紀を、その男が躊躇いもなく胸ぐらを掴んで、立ち上がらせる。そして冷たく刺すような視線で静かに一喝した。 「黙って従え。オメガ」  これまで散々オメガごときが……と言われてきたが、ここまで肝が冷える声色て言葉を浴びたのは初めてで、尚紀は驚いて声が詰まった。  そのまま腕を引っ張られて引きずられ、近くに停めてあった車の後部座席に放り込まれた。 「なっ……」  思わず抗議の声をあげようとしたが、その男から殺気を帯びた空気と、それとは裏腹の甘い香りを感じ、尚紀は驚いてそれ以上の言葉を出せない。  車が発進する。  まずいと焦るが、その一方で頭はぼうっとしてしまい、気を抜けばそのまま意識を失ってしまいそう。  隣に座るスーツ姿の物騒な男はそんな尚紀をチラリと見ただけで運転席に何かを指示した。いよいよ不味い事態だと思うが、どうにもならない。  すると尚紀の身体がさらに変化を見せ始めた。先ほどは気配だったのに、今回はやばい感じがゾワリゾワリと本性を見せた感じ。 「うわぁっ……」  湧き上がる、容赦のない衝動に、尚紀は身を抱いて身体を捩らせ、耐える。  そこに不意に男が発する香りが重なる。それは濃厚で頭がぼうっとして、身体が熱くなる。なんて香りなんだろう……。  その香りに包まれ煽られ、尚紀は痛恨にも意識を失ったのだった。

ともだちにシェアしよう!