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3章(3)
項を噛まれ、自分が違う者になってしまったような感覚を覚えて、今まさにここは奈落の底ではないのだろうか……。
尚紀は、自分を取り巻く世界が変わったことをようやく理解して、呆然としていた。
目が潤み、視界が急激に歪んで、涙が溢れた。
ああ、こんなにも番にされるというのは簡単なことなんだと思った。
さまざまな後悔が、胸に収まり切らずに溢れかえる。
自分がどう気をつけていれば、今のこのような事態を防ぐことができたのだろうか。
自衛していればよかったか、家に篭っていればよかったのか。
何が正解なのかわからず、尚紀は毛布を握って口元に寄せる。目を瞑り、もう一度目を開けてみると、すべてが解決していれば簡単なのに……。
どうしても飲み込めない。
受け入れられない。
「おい」
男が、尚紀の肩を掴んで揺らす。
「おい!」
尚紀は再度男に肩を大きく揺すられて、ようやく視線が男と合った。
初めて、目が合った気がした。深い目をしている、男だ。
「僕は……」
「お前の名前は?」
その問いかけに尚紀は答えなかった。問いかけを聞いていなかった。
なんでこんな互いに名前さえ知らない男に抱かれて、番にされないとならないのだ。
その顔を見て、この男が行ったその理不尽さと、麻痺した感情がようやく追いついて、怒りが湧いてきた。
沸いた疑問と、口をついた問いかけ。
「なんで……。なんで、僕を噛んだ?」
気がつくと尚紀は、男の腕をがっしり掴んでいた。口から漏れた気持ちは容易に感情を支配する。
彼の腕を揺する。
「なんで……なんで! どうして僕を番に!」
僕は嫌だと言ったのに。拒絶したのに噛むなんてひどい。
まさか拒絶をしたのに強引に噛まれるとは、尚紀は思ってもみなかった。果たしてそのような強引な方法が許されるのかと憤る。
すると男は、表情を変えることなく、腕を振り上げ素早い動作で、「ぱん、ぱん」と平手で、さらにその払いで手の項で、尚紀の両頬を叩いたのだ。
尚紀は一瞬視界を失うほどの衝撃を受ける。痛い。
今……、叩かれたのか?
なんの前触れもなく突然、勢い任せた力で両頬を叩かれ、衝撃とともに強い痛みに襲われて、尚紀は呆然とした。
何か、自分は悪いことをしたのだろうか。この痛みを与えら得るような悪事を。
目の前の男の目が冷たかった。なんの感情も見せずに、ごく自然に尚紀の頬を叩いたのだ。
「黙れ。俺の質問に答えろ、オメガが」
男が見下ろす。尚紀は頬を押さえて、身をすくませた。
「お前の名前を、俺は聞いているんだ」
怒っている。静かに冷たく怒るこの男に逆らってはいけないと、咄嗟に思う。
この人、怖い。
とっさに防衛本能が働き、感情が止まった。
目が……なにより空気が冷たい。
ごくんと息を飲み、絞り出すように枯れた声を出す。
「……にし、西尚紀……」
すると男は、尚紀の肩に手を添えて、頬に手を寄せた。
「尚紀か。俺は夏木。夏木真也だ。叩いて悪かったな。お前が俺のいうことを聞けば、ひどいことはしない」
ひどいこと……。
そして夏木は、尚紀の唇にキスをした。怖くて拒めなかった。彼のキスはタバコの煙臭い香りがして、尚紀は苦しかった。
夏木の言葉に、思わず自分の人生が大きく変わり、ここが奈落の底であることを強く自覚して、驚きと悲しみと後悔が入り混じった涙が溢れて出てきた。
嗚咽が漏れそうになる。
感情がバカになっているようで、尚紀自身にコントロールがきかなかった。
「泣くな」
夏木が短く命令する。ひどいことが脳裏を巡り、尚紀はしゃくり上げながらも、手で涙を拭う。
意識的に蓋をして、何も考えないようにした。
「お前は俺の番だ。よろしくな」
番……。
そう言われても、どうよろしくして良いのか、尚紀にはわからない。
ただ、もう西家には帰れないというのは分かった。
西尚紀、十七歳。
その人生はあまりに簡単に、夏木真也というアルファによって変えられてしまったのだった。
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