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3章(4)
無理矢理項を噛み、番にしたアルファの男は「夏木真也」。この男によって、自分の人生は大きく変化を遂げてしまった。
いや、「大きく変化を遂げた」というより、「勢いよく転げ落ちた」という表現の方が正しい気がする。
これまで危ういながらも敷かれたレールの上を歩いてきていたが、一つの過ちで簡単に転げ落ち、途中で止まることもできずにそのまま。今は、出口が見えない奈落の底だ。
初めての発情期は、その一日で終わってしまった。
沸いた頭に残っている記憶が確かであれば、夏木に抱かれたのは、番にされた時の、あの一回のみ。あの時に逃げおおせていれば、自分は彼に項を噛まれなかったはず。結果は大きく変わっていたのに……。
ここはどこだろう、と視線を巡らす。
夏木に合意なく無理矢理抱かれたこの場所は、広い部屋だった。
西家の自室の二倍はありそうな広さで、真ん中にベッドが鎮座している。寝室という趣き。今まさに横になっているこのベッドは幅が広くて、夏木と並んで寝ても、十分距離が取れるほどだ。
窓辺と思われるカーテンはずっと引かれたままで、外の様子は伺えない。
ここはどこか。
いつなのか。昼なのか夜なのかさえもわからなかった。
助けて。
もし、そのように携帯電話で父や母に連絡を入れたとして、果たして助けに来てくれるだろうか。
あの男の番となってしまった自分を。
その先を考えると怖くて、尚紀は自宅に連絡を入れる決断を下せず、結果、自分の携帯電話さえ探せずにいる。
おそらく両親は、出来の悪いオメガの息子は今日も碌でもない友人の家に泊まっているのだろうと思っている。
その不出来な息子にもとうとう発情期がきてしまったことを知らずに。
尚紀の中でずっと脳裏に「もし、あの時ああしていれば……」と後悔の気持ちが消えずにいた。
もし、あの時、夏木の手から逃れられていたら。
もし、あの時、夏木に見つからなかったら。
もし、あの時、すぐに自分で発情期と気づけていたら。
もし、あの時、あの場で発情期を起こさなかったら。
考えても無駄なことなのに、気がつくと考えていた。
その、もしもの思考を辞めることができなかった。
もしあの時、夏木から逃れられていたら、自分は、目の前に敷かれたレールの上に戻ることができていただろうか。
しかし、あの場を切り抜けられたとしても、あの匂いを振り撒いたまま、逃げ切ることはできたのだろうか。
分からない。たとえ逃げきれたとしても、あの体調で、あれだけ自分が混乱していた中、誰にも捕まらずに安全な場所に避難できたかと疑問に思うためだ。
いやいや。もし捕まらずに済んだとしても、あの繁華街の人ごみで、どうやって発情期をやり過ごすことができたのだろうか。あの時、自分は発情期という自覚さえなかったのに。
もし、夏木に見つからなかったとしても、夏木以外の誰かに見つかったかもしれない。アルファなんて、どこにいるのか分からない。項を噛まれることはなかったかもしれないが、アルファに見つかったら襲われていた可能性だって大いにある。
ならば、どのように自分がうまく立ち回っていたら、無事に発情期を乗り越えられたのだろうか。
今更考えても仕方がないことだが、尚紀は辞められなかった。自分の無知と軽率さが引き起こした結果の過ちだと十分に分かっていたが、悔やんでも悔やみきれなかった。
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