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7章「二十四歳、人生って本当にわからない」(1)

「忙しいところ来てもらって悪いわね」  梅雨が明けたばかりの、茹だるような都会の湿気が身体にまとわりつくような夏の夜。  尚紀は久しぶりに、事務所社長の野上に呼び出された。仕事が終わったら、連れて来いと指示を受けていたようで、夕方に仕事が終わり、マネージャーの庄司と現場で別れそのまま横浜に帰ろうとしていたところ、そのまま車に乗せられ、連れてこられたのは渋谷の外れにある事務所。  初めて来た六年前とあまり変わりがない雑居ビルの一室だ。尚紀が少しずつ売れてきてから、所属モデルが増えてきたとは聞いていたが、相変わらず人がいない。  このオフィスには用事がなければ顔を出さない。おそらく今回も半年ぶりくらいだった。  社長室に誘われると、居たのは社長の野上だ。尚紀にとって年齢不詳の彼女は、相変わらず個性を消したようなスーツに身を包み、この暑さでも汗ひとつかいていない。  それでも尚紀には優しい笑みを返す。 「久しぶりね。あら、少し見ないうちに背が伸びた?」  そんなとんでもないことを言われて、尚紀は苦笑する。 「まさか、僕ももう二十四ですよ」  夏木に発情期明けに突然この事務所に連れてこられ、モデルになって五年。ショーモデルとして活躍するにはやはり身長が足らなかったが、雑誌やネットを中心とした活動は順調だった。  集中レッスンプログラムで一緒だった信は、中小様々なショーを経験するなかで、国内のいくつかの大きなショーに携わり、海外での仕事も少しずつ増えているとのこと。フランスを拠点にするには現地のエージェンシーと契約を結ぶ必要があって、いまは探している途中だと、先日会った時に言っていた。 「もう少しだ。もう少しでスタートラインだ」  信はやる気に満ち溢れていた。尚紀もそれを見て、嬉しくなった。  信だけではない。そのほかのメンバーも各々活躍の場を得ていて、生き残るのが難しいとされるメンズモデルの世界で、奮闘を見せていた。あのレッスンのメンバーとはどこかで仲間という感覚があって、尚紀はオーディションで会っても、気さくに話ができた。 「そうね、でもなんか少し逞しくなった感じがあしたのかも」 「筋トレ増やしてるからですかね」  野上は苦笑して頷いた。 「それもあるかも。庄司から聞いてるわ。精華コスメディクスさんからのリクエストのようね」 「はい。僕としては、もう少し背が伸びた方がよかったんですけどね」  この夏、尚紀はオーディションで大きな仕事を勝ち取った。それが、化粧品会社大手の精華コスメティクスのメンズコスメラインのイメージモデルだ。これまでネットで細々展開していたブランドだったが、メンズコスメの市場拡大を見据えて、今後大きく育てていく方針とのことで、尚紀を含む数人がイメージモデルに起用されていた。  これまでネットや雑誌を中心に広告やCMなどの仕事を単発でこなしてきた。ときには雑誌での専属モデルもあったが、このようなブランド横断の大きな仕事は初めての経験だ。気合いが入っている。 「で、御用はなんですか」  尚紀がそのように言うと、意外な反応が返ってきた。 「尚紀は、夏木さんといま連絡とれる?」  尚紀はきょとんとした。 「連絡先は知っていますが、自分で取ったことはないですね……」 「そうなのね。ここ最近連絡は来た?」  尚紀は首を横に振る。 「今月の頭に発情期で会ってから全く」  野上は吐息をついた。そうよねえ、と二人の関係を知っているゆえに頷く。 「昨日夏木さんから連絡が入って、少し前から彼の本業がゴタついていると。尚紀は目立つから、気遣ってやってくれ、と言われたのよ」  本業というからには……と尚紀は思った。  ヤクザ業のほうか、と思う。 「なんか、揉めているのでしょうか」 「分からないわ。ただ、そんなことを言われるのも初めてで、少し心配で。ナオキの顔を久々に見たいし、忠告もしないとねと思って、来てもらったのよ」  尚紀は頷いた。 「僕は今のところ大丈夫です。目立つとは言っても、普通に現場で仕事をして電車で家に帰る生活だけなんで。最近はそこにジム通いも入っていますけど」  それを聞いて、野上は苦笑した。 「本当に二十四歳男子の生活なのかしら」  もう少し遊んでもいいのよ、と言われ尚紀は思う。まさかの社長からけしかけられるとは。 「オフの日は映画を観たりするし、図書館も行きますよ」  今日はこれから横浜に帰るんです、と言った。 「明日、タツヤの誕生日で」    あら、と彼女もからかい半分で言う。 「またカレー作るの?」 「へへ。そうなんです。今回のリクエストはカレーと餃子です」  相変わらず仲良さそうね、と野上は呆れ顔。  おそらく、同じアルファに番にされたものしか分かり合えない感覚だと思うので、尚紀もあまり言わない。  野上からは、庄司に送らせるわと言われてお役御免となった。これまでそのようなことはあまりなかっただけに、尚紀は少し心配になった。

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