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8章(6)

 達也が出ていったのは、年の瀬が迫る寒い日だった。  あえて尚紀が不在の昼間、バタバタと荷物を抱えて出ていった様子で、柊一も部屋にいて、二人とも見送りもしなかった。  尚紀が仕事から帰宅すると、達也が使った合鍵は郵便ポストに入れられていて、部屋に戻ると暖かかった部屋はがらんとしていて、寂しげ。  空気で、達也が去ったことがわかった。  尚紀は仕事用のリュックを背負い、コートを着たまま、これまで入ったことがなかった達也の部屋の襖を開ける。やはり中は空っぽで。カーテンが外された窓は、暗くて寒々しい外の風景がそのまま臨める。  分かっていたことなのに、尚紀は呆然とした。  達也がここ来て、一緒に生活を始めて七年ちょっと。こんな日が来るなんて、思わなかった。 「……出て行っちゃったね……」  背後から声がする。それは尚紀の帰宅に気がついた柊一で。  柊一もやはり寂しそうな表情を浮かべていた。 「ナオキ、きっとタツヤにとってはこれでいいと思うんだよ」  そのように柊一は尚紀を諭す。 「達也は新しい人生をやり直すチャンスがあるのだから」  柊一にそう言われて、尚紀は頷く。  分かっている。分かっているけど。  尚紀は俯いた。今は言葉にすると、納得しているもの以上の思いが溢れてしまいそう。尚紀は口を噤んで、耐えるしかなかった。 「うん、そうだね……。僕、お風呂入ってくるね」  そう言って、尚紀は柊一の前から逃げた。  洗面室で無言で服を脱ぎ、浴室に入って熱いシャワーを落とす。  身体が冷えていたのかもしれない。少しホッとした気分になったが、それ以上何も考えないように、一心不乱に髪を洗った。そして身体をボディソープの泡で満たす。  ふわふわの優しい香りが充満しても、胸にぽっかり空いてしまった寂しさと不安を拭うことはできない。  達也は今日はどこで一夜を過ごすのだろうか。  実家に帰ったのかなと思ったが、彼の実家は大家族だと聞いているし、帰りにくいのではないか。そんな心配も出てくる。  いや、もういい大人だし、うまくやると思うけど、それでも心配。尚紀は達也を頼りにしていた一方で、いつまでも弟のような存在であった。    ずっと一緒にいるかもと思っていた。そんな達也がいなくなって、置いて行かれた気分と、捨てられた気分と、達也の幸せを願う気分と。  ない混ぜになって、どうにもならない。  尚紀はシャワーの湯を頭から被りながら、顔を手で覆った。 「ぐっ…ぅん」  胸に苦しい何かが込み上げてきて、思わず息を詰める。 「うぅ……っ……」  自分の部屋では泣けない。外でも。  だけど、ここならば。  尚紀はシャワーのお湯に顔を当てる。  シャワーの音にかき消されて、お湯と一緒に涙もいやな気持ちも後悔もすべて流してしまいたい。 「ふぇ……ん……」  頼れる人はいない。明日に目を向けないと生き抜けない。  けれど、柊一と二人で生きていくのは心細い。  でも、達也はもういない。  弟のような達也の存在は忘れないと……、と尚紀は思った。でなければ、明日から柊一と二人で生きていけないような気がしたのだ。  もう、自分は金輪際達也のことを口にしない。  尚紀はシャワーに当たりつつ、ザーっという水音に紛れされ、わずかな泣き声を上げて泣いて、そう心に決めたのだった。

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