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8章(19)
「元はと言えば、項を噛まれたのだって不注意だったのかもしれないけど、僕もそれなりに落ち込んで……それを優しく見守って立ち直らせてくれたのがシュウさん。
僕にとって大切な人なんだ」
柊一にとって、尚紀はそうではなかったのかもしれない。だけど、彼のそんな本音を知ってなお、慕しみを抱いているし、恩人であることに違いはない。
「シュウさんがいなければ、僕にはモデルになるという道が開けたか分からないし、番から自立するという発想もなかったと思う」
信がいきなり尚紀の手を引き、ぎゅっと温かい身体で抱きしめた。突然のことで尚紀は戸惑う。
「おれと尚紀の接点なんて、あの時のレッスンプログラムの時だけだ。結構濃密な一ヶ月で、かなり分かり合えたような気になっていたけど……尚紀の数ある側面の一つに過ぎなかったな」
その信の言葉からわずかな後悔を感じた。信は、尚紀の背中を何度もさすって、とんとんと叩いた。その優しい仕草が、尚紀の気持ちを慰撫する。
「僕はあそこで、友人も目標も生きている実感も充実感も得ることができた」
あの時のことは今でも大切な思い出だよ、と尚紀が言うと、信は背中をさすってくれた。
それは、信が尚紀のこれまでの人生を受け入れてくれたかのようで。彼の腕の中で尚紀は吐息を漏らした。
「濃密だな、尚紀の人生は」
これを信は「濃密」と表現してくれるのかと思った。自分の無知と不注意が原因で、通りすがりのヤクザに無理矢理に番いにされるという奈落の底を見た人生であるが。
「さっきシオンの新しいプロモーションを見た」
ナオキが出ているやつ、と信は続ける。
「すげーと思って、勢いで連絡したんだ」
今日解禁されたプロモーション映像を、信は見てくれたようだった。常に自分だけでなく他人にもストイックな彼が、「モデルのナオキ」の仕事を手放しで褒めてくれたことが誇らしい。
まず口をついて出たのは感謝の気持ち。
「見てくれたんだ。ありがとう」
「ナオキじゃないとできない表現だと思った。ただただすげぇとしか思えなかった」
信の手放しの賞賛に、尚紀は自然と笑みが漏れた。
「人と運に恵まれたみたい」
すると、すかさず信は言葉を差し込む。
「それも実力のうちだ」
それは彼の口癖だ。
「……そうだね。
それで会いにきてくれたの?」
尚紀の言葉に信は頷く。
「あと、挨拶もしておこうと思って」
「挨拶?」
「明日の早朝便で俺は日本を発つ。フランスに行くんだ」
その信の告白に尚紀は思わず身体を離した。
「それって……」
信はヨーロッパで活躍できるショーモデルを目指していて、あと一歩のところでエージェントを探して契約する段階まで進んでいると聞いていた。
「見つかったんだ!」
尚紀は驚く。それは信の夢が叶う第一歩。
「すごい!」
「ありがとう。それこそ縁と運に恵まれた」
尚紀はそれを意気揚々と指摘する。
「それも実力!」
深夜の公園で尚紀は一時はしゃぐ。だってすごいことだ!
尚紀はねぎらいと激励を込めて信を抱き寄せる。チャンスを掴めばきっと昇り詰める。どこまでも行く。そんな情熱と実力を、信は持っている! 本当に尊敬する。
だけど。
そんな限られた、大切な時間を使って自分に会いに来てくれたのに、彼に人探しをさせてしまっている。そう思うと尚紀は申し訳なさで身が縮む。
「ごめんなさい。こんなことに巻き込んで……」
しかし、信は首を横に振る。
「平気だ。俺は尚紀をより深く知ることができて嬉しい。まだ少し付き合えるから、シュウさんを見つけよう」
そう言って立ち上がった。
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