87 / 159

8章(24)

 こんなにしんどいものだとは思わなかったと尚紀は両手で顔を覆う。  なんで、夏木を失い、柊一を失った今、自分がただ一人、すでにない夏木の香りを求めているのか。  意味が分からない。  どうして最後に自分に来たのだろう。  そんなことをぼんやりと考えていると、ふと香るのだ。  夏木の香りを。なぜか分からない。もしかしたら、嗅覚が引き起こす幻なのかもしれない。いや、「かもしれない」ではない。現実的に考えればそうなのだ。尚紀が覚えている香りの記憶に惑わされている。  だけど、わかっていても番が近くに来てくれたと思ってしまう。嫌いな男だけど、香りには身を委ねる。  機嫌をそこねれば顔を叩かれるかもしれないけど、発情期のフェロモンに飲まれてしまえば怖くはない。  この香りに身をゆだねれば安堵できる。すべてを受け止めてもらえる。  そんな番の香りを感じ、身体が高まって発散して、急激に落ちて正気に戻る。  幻覚だった。香りも気のせい。  夏木は死んだ。そして柊一も。自分は死にたいなんて思ったこともないのに、どうしてか置いて行かれたという気持ちが拭えない。  置かれた現実を振り返ると、胸がきゅっとしぼむのだ。  ここにいるのは一人だけ。  夏木も柊一も、達也もいない。  とても、寂しい。  正気に戻り孤独感にさいなまれて泣いて、泣きつかれて意識が落ちると、発情の波に再び巻き込まれる。  そんな精神的にも肉体的にも消耗する時間がしばらく続いた。  どのくらいだったのかは尚紀にも分からない。  なぜ独りでこんなことになっているのだ。もう誰もいないのに。置いて行かれて悲しい。行こうと思えば柊一のところに行けるのかもしれない……と真剣に考える自分がいて驚く。  柊一のところに行くということは……。  自分は何を考えていたのだろうと戦慄する。  孤独感と理不尽さが交互にやってきて、その間に希死想念が魔が刺すように入ってきては尚紀を責め立てる。  そして、ふわふわとした番の香りに包まれた夢を見て、体力が尽きかけた頃、ようやく尚紀の一年半ぶりの発情期が終わった。  発情期が明けて頭がクリアになった尚紀は、ベッドに横たわったまま、辺りを見回す。それはいつもの見慣れた自室で。夏木を失っていることも、柊一がいないことも自覚していた。  驚くことに、発情期の前にはどうしても受けとめきれていなかった柊一の死を、尚紀は受け入れていた。  頭はクリアであったが、体力は立ち上がれないほどに消耗していた。

ともだちにシェアしよう!