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9章(4)

 海洋散骨のセレモニーが終わり、大さん橋のターミナルに戻ってくると、適宜解散となった。  庄司は尚紀をその場で待たせて、会社に報告の連絡を入れた。   「え、尚紀に?」  いきなり自分の名前を呼ばれ、尚紀の注意は庄司に。  何を話しているのかは見えないが、庄司は頷いた。 「ええ、事情はよく分かりませんが、承知しました。連れて行きます」  そういって通話を切った。そして尚紀に振り向く。 「尚紀、これから時間あるかしら? あなたにお客様がいらしているみたいなの。社長が連れてきてと」 「僕に……?」  事務所に訪ねてくるというのは、一体どのような客だろう。 「仕事関係ですよね……?」  疑問に思う尚紀に、庄司も首をひねる。 「事情がいまいち掴めないのだけど、とりあえず行ってみましょう」  そう促され、尚紀は庄司の車に乗り込み、渋谷に向かった。    尚紀はこの事務所の世話になって五年以上が経つが、頻繁にここを訪れることはない。せいぜい手続きや、社長に呼び出された時くらい。  最初は訳も分からず夏木に連れてこられた。渋谷のはずれにある雑居ビルの一室に構える小さな事務所。それから、少し仕事も所属モデルも増えたらしいが、事務所自体はあまり変わらない。  ただ、少し体裁を整えたらしく、昔に比べて小奇麗になった。時折クライアントがやってきたりするためだ。そこに、尚紀自身が呼ばれ同席したことは、一、二度ある。  事務所に訪ねてくる客、と言われて、今回も尚紀はそんなケースを想定した。  横浜から渋谷まで、道が空いていれば一時間もかからない。  契約駐車場で車を降りて、尚紀は庄司とともに事務所に向かう。  正直にいえば、柊一を失い、体調も万全ではない中、仕事に向かえるエネルギーは多くはない。少し休みを取れば再び頑張れると思うが、それは今ではない気がするのだ。  しかし、社長の野上がそんな事情を把握していないわけがなく。無理を押しても尚紀を連れてこいと言うほどのクライアント……と考えると、少し厄介そうで憂鬱になる。  常に求められ続ける仕事をするには、ありがたいことだと思ってはいるが、どうしても気持ちが追いつかない。  事務所の扉を開けると、尚紀は少し違和感を覚えた。いつもとは違う、どこかしっくりと自分に馴染む空気に驚く。  この事務所は過去何度も訪ねてはいるが、かつてこのような不思議な感覚になったことはなかった。何が違うのか。  気になり出すと止まらなくて、レイアウトを変更したとか……と辺りを見回したりもしたが、違うなと感じた。 「ナオキ? とうしたの?」  きょろきょろと思わず辺りを見回してしまった尚紀は庄司に気遣かわれつつ、彼女はそのまま真っ直ぐに社長室へ。  尚紀も遅れずにそれに付いて行った。  庄司が扉をノックをすると、扉の向こうから野上の返事が聞こえた。  庄司は少し尚紀に視線を流し、尚紀は覚悟を決めるように頷いた。 「失礼します。ナオキを連れてきました」  庄司が扉を開けて中に入り、尚紀はその空気に触れて息が止まるかと思った。  野上と並び立っている人物は、スーツ姿のスラリとした長身の男性。  眼鏡をかけた知的な視線が、こちらを見据えている。  誰だ。  そんなことを思ったのは、ほんの一瞬だけだった。  その澄んだ曇りない目を、尚紀は知っていた。けれども、それはこれまで決して自分に向けられたことはなかった。逆に、自分がその姿を熱い視線で追っていた。  振り返ってもらえる期待なんて全くしていなかった。これからの人生で交わることなんて絶対にないと思っていたから、忘れることはしなかったけど、ずっと記憶に蓋をしていた。  それが、開かれた。  一気に時間が逆回転した気がした。  驚きが溢れて、尚紀の口から思わず言葉が漏れた。 「こうがみ……せんぱい……」

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