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9章(5)

 名前を呼ばれた、シックなスーツ姿の相手が、ふわりと表情を緩めた。  その柔らかい笑みに、胸がきゅっと締め付けられた。  江上廉。今の今まで、記憶の奥深くにしまって、もう取り出すことはないと思っていた初恋の人が、信じられないことに目の前にいる。  自分が知っていた姿よりも、もう少し精悍に頼もしく、大人になって。  廉が、野上の隣に立っていた。  そして、この人から漂う空気が尚紀を動揺させていることに、ふと気づく。  先ほどから、事務所に漂うこれまで感じたことがなかった、しっくりはまるような空気はこの人がいるからだ。   「尚紀」  尚紀が辛うじて江上先輩、と呼んだ相手から、温かい声で名前を呼ばれる。この人に、こんなふうに呼ばれることにしっくりくるなんて、と尚紀自身にも驚きだ。  しかし、驚きはあっても、どうしてなのだという疑問は湧かなかった。  尚紀が認識できたのは、目の前にいるのが初恋の人である江上廉であること。そして、彼こそが自分の番であるということ。  いや、番であることが相応しい人、というべきか。とっさにハマるパズルのピースのように、尚紀の本能の部分で、この人だと判断していた。  こんな気持ち初めてだ。  恋心とも憧れともわずかに違う。もっと確信に近い、相手を選ぶ生存本能に備わった判断力のようなものがそう言っている。  まさかの相手が、この人であったことに、尚紀は繕うこともできずに、ただただ、衝撃を受けている。  自分の身体の奥から沸き立つこの気持ちにどう対処していいのか分からない。  実際に番契約を結んだ夏木からさえ、全く感じたことがなかった初めての感情に見舞われて、尚紀は戸惑っていた。  本当の、自分が求める番に出会ってしまった。  尚紀のそんな驚きとわずかな喜びは、すぐに戸惑いに変わり、そして絶望に変化した。もう番となるべき人と出会っても、尚紀は番うことはできないのだ。  改めて、自分が置かれた立場を実感した。  どうして、自分は夏木の番なのだろう。 「尚紀?」  尚紀は立ち尽くしていたが、再び廉に名前を呼ばれ、そして近づかれて、その分だけ尚紀は後ずさる。  この人は、きっと同じ感覚を持ってここに来た。自分のことを番だと気づいてくれたから、ここにいるのだろう。  だけど、すでに自分は他のアルファの番になってしまっている。そのことに気がついているのだろうか。  尚紀はそう確認することはもちろん、声を出すことさえ怖かった。  とっさに身を翻して逃げようとしたのだけど、驚いて腰が砕けてしまったようで、ドアに背を預けて、尚紀は座り込む。 「大丈夫?」  廉も同じ目線の高さに腰を落とし、優しく問いかけてくれた。 「俺のことを覚えていてくれたんだね」  嬉しいよ、と穏やかな表情を語りかけてくる。 「………」  尚紀は何も言えず、目を逸らした。初恋の人だったなんて、きっと思いもよらないだろうと思う。  廉は尚紀を優しい眼差しで見つめた。 「もしかしたら、初めましてって挨拶しないといけないかもしれないって思っていた。尚紀の思い出の中に俺がいたことがとてつもなく嬉しいよ」  そんな優しい言葉をかけてくれたのだ。 「尚紀、お疲れ様。待っていたのよ」  野上にもそう言われて、尚紀は正気に戻って、彼女を見上げる。 「しゃ……社長……。どうしてこの人が」  するとボブカットの色白美人である野上は、意志の強い強い視線を尚紀に向けてくる。 「知人の紹介なのよ。尚紀の知り合いだと伝手を頼ってこられたらしいわ。まず私の方でお話を伺って、尚紀に合わせるべきだと判断したの」  尚紀は廉と野上を交互に見る。 「本当に知り合いなのね」 「……社長」 「だって、自分がナオキの番だなんて言われたら、無下に追い返すわけにはいかないじゃない?」  尚紀は思わず廉を見る。 「彼は、自分が貴方の番だとそう言って訪ねてきたのよ」

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