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9章(8)

 目の前に腰掛けた野上が口を開いた。 「それで、私はどこから話を聞こうかしら」  その思わせぶりな視線で、関係性を問うているのはわかる。廉は尚紀のことを「番」だと言ったらしいし。  尚紀は、動揺を抑えて冷静であろうと思いつつ、口をひらく。 「僕の中学時代の先輩です……」  確かに彼もそう言っていたわ、と野上は頷く。  そして沈黙。きっと彼女はもっと深く聞きたいのだろうと思う。それだけじゃないわよね、と心の声が聞こえてくる。  その沈黙に尚紀は耐えられなくなる。この人のこういうところが苦手だと思う。 「あと……僕の、初恋の人です」  あの方は知りませんから、と口止めをする。 「あら」  前者は想像できたのだろうが、後者は意外だったのかもしれない。野上の声が弾んだ気がした。 「ナオキにとっても、もともと特別な人だったのね」  ナオキにとって「も」。彼女がそのように言うと、まるで廉にとって、尚紀が大切な存在であるということを承知しているようにも聞こえる。 「特別っていうか……。僕は、ただ四年間何も言えずに、眺めていただけです」  自嘲ぎみなセリフが口に上る。 「ナオキらしいと言えばナオキらしいわね」  そのように苦笑する野上は容赦がない。  それだけの関係だったはずだ。だから、あの人がここに来たことは驚きと衝撃なのだ。 「だから、僕の衝撃は分かっていただけるでしょう」 「憧れの存在だったのね」  尚紀は無言で頷いた。  手が届かなかった存在が、約十年の時を経て、自分の元に降りてきてしまった。 「で、番なの?」  野上の直球に、尚紀は居た堪れずに……俯いた。 「わかりません」 「わからないって?」  こんなふうに詰めるように聞かれても、言葉にするには時間がかかる。  尚紀は少し考える。 「僕にはすでに番がいます」 「夏木は死んだわ」 「でも、項には跡が残っています」 「じゃあなんで、あの人は番だなんて? それにナオキはどう思っているの」  そんな質問に尚紀は首を横に振る。そんなことを聞かれても分からない。なんであの人が自分をつがいだと認識してここまで訪ねてきたのか。そしてどうして尚紀自身も、ここに着いた時に廉が漂わせている空気に身を委ねたくなったのか。直感としてこの人が番だと思ったのか。  おそらく、尚紀にとっても本来の番は、彼なのだろうと思う。  ……だけど、そんなことは本当に、どうでもいいのだ。  大切なのは、自分が望んでも、たとえあの人が望んでいたとしても、番にはなれないということ。  せっかく出会えた番が、江上廉であったことはとてつもなく嬉しい。運命的でもあるとさえ思う。  だけど、まさに運命的な巡り合わせで、自分は江上廉の番になることは叶わないと尚紀は悟ったのだ。 「社長は、僕と夏木の関係がどういうものであったか薄々気づかれてると思うのですけど……、僕にとって、夏木は番であっても愛情はありませんでした」  それに縛られたままの自分の目の前に現れた、「本当の番」。  一体どんなメロドラマかと思う。  この劇的であろう展開が、尚紀の気持ちを深く深く落ち込ませる。  落ちるところまで落ちた気分だ。  まるで、夏木に項を噛まれた時に感じた奈落より深い場所にいる感じさえする。  番うことができないのであれば。 「……知らない方が良かった」  尚紀は、思わず頭を抱えてしまった。  野上は身を乗り出して、尚紀の手を掴む。 「尚紀、いいこと? もう夏木はいないのよ」  その言葉には頷き難い。 「でも僕の項にはまだ残っている」  あのまま、夏木の遺産のような発情期に見舞われなければ、まだ希望が持てたのかもしれない。でも、あんな一週間を経験したら、そんなことは到底考えることはできない。 「僕はもうあの人の番になる資格がないんです」  そうなのだ。  だから断らないとならない。  尚紀はそう目を閉じた。

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