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閑話(3)
少しクールダウンしたい。
その日、仕事を終えて、廉は珍しく会社の最寄り駅である品川駅の構内のバーに入った。
まったく仕事にならない一日だったが、それは仕方がない。
「廉でもそういうことがあるんだねえ」
らしくないミスを連発する廉に、そう言って苦笑していたのが、廉の上司に当たる社長の森生潤。ミス連発の理由については全く話していないが、ニヤニヤ笑って許してくれた。
潤は、中学校から大学、そして就職先まで同じという、腐れ縁も極まれりという関係性で、この秋に森生メディカルの社長に就任した。同級生で、もちろん同期入社なのだが、最速で社長まで駆け上がってしまった親友である。
潤は森生本家の次男。江上家は森生家の分家にあたり、廉は次男だ。潤はもともと優秀な男なので、廉があえてサポートする必要はないのではないかと思うが、オメガであるという負い目を本人が抱いていて、前社長で潤の母親の茗子からも、よろしくと直々に言われてしまった手前、取締役就任と同時に専属の秘書となった。たしかに激務であることに違いはないし、潤にはこの地位で長く頑張ってもらわねばならないので、相性が良い専属の秘書はいた方がいいだろう。
ただ正直に言えば、彼はオメガであることを受け入れ……いや、開き直ってしまえば、もっと能力を発揮できるのではないか、と廉は常々思っている。しかし、そんな無神経なことを本人には口が裂けても言えない。
さて、上司に迷惑をかけまくり、ネットを駆使して集めたナオキの情報はある程度の量になった。
廉はサーブされたビールを口にして、少しだけ今日という日を思い返す。自分の中で物事の優先順位というか、価値観が激変した、衝撃的な一日。
スマホに保存したナオキの画像をさらう。可愛い……と思ってしまうが、そのなかでインタビューを受けている画像があり、その横顔が頭から離れない。
どこかで……見たことがある気がするんだよな。
ネットの拾い画像なのだが、ずっと引っかかっていた。動画をスクショしたものと思われるので、あまり画質も良くないのだが、これが妙に廉の感覚に触れる。
ビールを飲みながら考える。自分の番を見て気が付かなかったなんてことがあるのかわからないが、過去に見かけたことがあるのだろうか。ナオキに辿り着くヒントが自分の中にあるような気がして、どんなことでも逃せないと思う。
クールダウンしたいから帰宅前に一杯ひっかけようと思ったのに、結局考えていることはナオキのことだ。きっと彼の素性が割れて、実際に会うことができるまで、ずっと彼のことが頭を離れないのだろうと思う。
それほどまでに会いたい。
廉はナオキの全てを知りたかった。
どこで生まれて、どんなふうに生きてきたのか。番のオメガを知ってしまったアルファの独占欲なのだろう。
スマホのフォルダはナオキの画像が溢れている。いろいろな表情を見せてくれる。ずっと眺めていられる。いちいち表情が可愛らしくて愛おしい。番は可愛いという話をアルファからは頻繁に聞くのだが、これまで廉はそんなことを考えたことはなかった。番が近くにいなかったからだが、こんなふうに沸き立つような、全てを投げうっても自分のものにしたいという強烈な欲望は経験がなかった。
今はそれをナオキに感じている。
ぱらぱらと拾い画像を眺めてから、くだんのナオキの横顔に戻る。ふと、自分の中でやはり光のような何かに触れた。
廉は目を閉じる。なんだ、それは。
じっと集中してそれを辿る。どこか懐かしい感覚に包まれて、廉はそれをぐっと掴んだ。
「江上先輩!」
ふと脳裏に蘇った、可愛らしい声に、廉の心臓が跳ねた。
「尚紀!」
廉は思わず口にした。
西尚紀。
ナオキを見ていて、記憶に触れていたのは、中学時代に自分を慕ってくれていた後輩の姿だった。
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