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閑話(16)
尚紀が自分のことを覚えていてくれた。
それは、想像していたことよりも、とてつもなく嬉しいことで。
廉の表情は、自然と綻んだ。
「尚紀」
自然と気持ちが溢れて名を呼ぶ。
尚紀が愛おしいという気持ちが湧いてくる。
きっと尚紀も同じ感情が湧いてくれているのだろうと、思ってしまった。
しかし、尚紀は廉をじっと見て、口をぎゅっと締めた。何かに耐えるようで、どこか憂いを帯びた表情に、違和感。
「尚紀?」
問いかけて、思わず一歩近づくと、尚紀が一歩後退った。
引かれた? と思わず思い、もう一歩進めてみると、やはり引かれる。
そして尚紀は、さらに後退り、腰が砕けたのかその場に座り込んでしまった。
とても辛いものを見るような目を向けられている。
なんで、と思う一方で、その表情で、彼を驚かせショックを与えているのは自分がここにいるためかと思った。
その反応はかなり堪えた。
そう思って、廉は自分が都合がいいように考えていたことに気がついた。今は前の番の噛み跡が残っていると聞いていたが、本物の番である自分のことは分かってくれると思っていたし、会えば驚きつつも再会を喜んでくれると、本当に単純に思っていた。
尚紀の事情などお構いなしに、そんなふうに軽く考えていたのだと、廉は思った。
実際に会えばなんとかなる、と。
だけど、現実は簡単なことではない。
尚紀には尚紀の事情があって、彼にも感情がある。そんな単純に事が運ぶはずがない。
今更ながらに現実を直視した。
廉は、驚き引いて座り込んでしまった尚紀の元に腰を落とす。
今は、再会できたことだけを喜ぶべきだ。どんな反応でも、自分を覚えていてくれた尚紀が、とても愛おしい。
だけど、その愛おしい気持ちを伝えるのはまだ早い。十年以上のブランクがあるのだから。
「俺のことを覚えていてくれたんだね。嬉しいよ」
そう語りかけるも、尚紀は目を逸らした。
いきなりすぎたのかもしれない。
会えて良かった。初めまして、と挨拶することになっていたら、そこで勝負は終了だった。覚えていてくれた尚紀に感謝しかない。
廉は誠実な気持ちで言葉を紡ぐ。
「尚紀の思い出の中に俺がいたことが、とてつもなく嬉しいよ」
二人のやりとりを見ていた野上が「本当に知り合いなのね」と廉と尚紀を交互に見た。
尚紀は本当に何も聞いていなかったみたいなので、野上に恨みがましい視線を送っているが、彼女に伝わっている様子はない。その何気ないやり取りは二人の関係性を示しているようで、少し微笑ましい。ショービジネス業界は殺伐としているとも聞く。だけど尚紀は、この事務所で、この社長に守られてきたんだなと、廉は思った。
「彼は、貴方の番だとそう言って訪ねてきたのよ」
野上の言葉に、尚紀が驚いて廉を見た。
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