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閑話(30)

 なんてことをさせてしまったのだ。  廉はそう思った。  最初は尚紀の前の番との絆を目の当たりにしたショックだった。続いて、じわりと広がるのは自分の言動に対しての罪悪感。  尚紀は項の噛み跡を廉に晒した。きっとこんなふうにその場所を、他のアルファにあえて晒すことはないだろう。  尚紀は苦しんでいる。  分かっているつもりだった。  尚紀は死別した前の番である夏木との絆を、未だに大切にしている。そこに本能が求める番である廉が現れた。板挟みになる尚紀の感情と境遇を、廉は十分理解しているつもりだった。  番を失った悲しみと思い出をすべて受け止めて寄り添うことは、廉にはどうしても心情的に難しい。だけど、その傷を少しでも癒したいから、二人で新たな思い出を作りたいと思ってきた。  急ぎすぎているのかもしれない。  廉は激しく反省した。  少しどころか、かなり自分は先走りすぎていた。きっと尚紀を知らず知らずのうちに追い込んでいた。  自分の押しがあまりに強くて、尚紀自身が戸惑いを隠せないから、このような反応を見せたのだろう。  結局、自分が尚紀の気持ちを求めてなにかをすると、彼に気を遣わせてしまう。  時期尚早なのだ。  尚紀には大切な人がまだ胸の中にいるし、実際に項に跡も残っている。  いつになったらと思うが、それは自分に課せられた試練なのだろう。  尚紀が自分のことを番候補として考えてくれるのはいつか。  本当に前の番の跡が消えるかどうかは分からないが、前の番とのことが思い出になった頃なのだろう。  なのに、無理をさせていた。無理矢理思い出にさせようとしていた。 「そんなふうに番の項を見せなければと思うところまで、俺は君を追い込んでいたんだね」  ごめんね、と廉は謝る。 「尚紀には時間が必要だ。俺にも……」  この関係は、少しずつ歩みを進めていくものだ。 「まずは友人として、付き合ってくれないだろうか」  廉の提案に尚紀は驚く。 「友人ですか……」  都合が良い提案であることは百も承知なのだが、尚紀の反応が少しだけ軽くなった気がした。これも都合がよい解釈だろうか。 「まさか中高時代の後輩と、こうして縁を復活できるなんてなかなかない。俺は今の尚紀のことをもっと知りたいし、今後は友人として気軽に付き合ってくれないだろうか」  友人として、それ以上のラインは越えないと自戒する。 「……そうですね。僕も、まさか江上先輩が僕を訪ねてきて下さるなんて本当に思わなくて……」  そう言ってくれた。尚紀は本当に優しい。 「よかった。ならば、友人としてお近づきの印に、尚紀にお願いがあるんだ」  廉が身を乗り出す。 「なんですか?」  廉はにっこり笑みを浮かべた。 「俺のことは廉、と名前で呼んでほしい。もう先輩でもなんでもないからさ」  少し大胆だろうか、と廉は言ってから心配になる。廉は、尚紀が断れるくらいに、負担にならないように軽く言ってみた。 「名前……。廉、さん……?」  尚紀の唇が、そう紡いだ。廉は嬉しさで舞い上がる。まさに、感無量だ。せり上がるように、胸に込み上げるのは満たされたような幸せな気持ち。  現金なもので、まさに泣きたくなるような感情だ。 「名前で呼ばれるのがこんなに嬉しいとはね」  そう、まだ尚紀とはこの程度の距離感なのだ。名前を呼ばれて幸せに浸れる程度の距離感。実感して嬉しさに少しだけ混じる苦しさ。それでも、少しずつ前の番との思い出に寄り添い、そして彼を癒したいと、廉は思った。

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