207 / 210

閑話(37)

 尚紀を世話するのは、廉にとって喜びだった。  本能が番と定める愛おしい相手が、自分のテリトリー内にいてくれるという安堵感と、どこか浮ついたようなそわそわする気持ち。  これは「幸福」という感情なのだろうと廉は思う。廉自身は、わりと恵まれた環境で生まれ育ったし、不幸であるとは思ったこともなかったが、それでもこのような幸福感に満たされた経験はあまりない。  尚紀はそんな廉の浮かれぶりをどう思っていたのか。甲斐甲斐しく世話を焼く廉に、それでも付き合ってくれた。  廉の部屋に連れてこられ、庄司と二人がかりで迫るように説得をしてしまったせいもあって、疲れたのだろう。尚紀はそのままダウンするようにソファで寝入ってしまった。  寝顔を見ると、すごく可愛くて、尚紀がここで無防備に寝てくれているという事実だけで、喜びが溢れてくる。  彼を寝室のベッドに運び、自分は書斎に寝床を整えた。尚紀を迎えるためならば、特段床で寝ることに苦はない。  そして食欲がないであろう尚紀は何であれば食べるかなとあれこれ考えて、玉子粥を作った。  日が落ちて、しばらくすると寝室から物音。どうやら尚紀が起きたらしい。  自分で身を起こすことができるかなと思い、少し部屋を覗いて見ると……。  尚紀が目を腫らして泣いていた。少し廉は驚く。体調が整わないし、情緒不安定になっているのかもしれない。 「起きて一人だったから……寂しくなっちゃった?」  そんなふうに冗談めかして言ってみるが、黙り込まれてしまった。……まずい。  なぜ泣いているのかを根掘り葉掘り聞くことなどできないが、おそらく体調と環境の変化についていけないのだろう。 「大丈夫。尚紀はちゃんと元気になるし、一人でもない。ここでは安心して休んで」  そうして慰めると、少し落ち着いてきた様子。先ほど作ったお粥も少し食べてくれた。  少しずつ動けるようになればいいと思った。  月曜日。尚紀は恐縮したのだけど、廉は仕事を休んで尚紀の通院に付き添うことにしていた。デスクワークは管理職でもあるので自宅でできる。尚紀の面倒を見ながら、土日で必要なものは片付けたし、外出に同行できない旨は上司に報告済みだ。  タクシーに乗り込んでみなとみらいまでの道のりを指示する。尚紀はなんとなくぼんやりとしている様子で、やっぱり気が進まないのだなと廉は思い、車内ではそっとしておくことにした。  尚紀は、中学時代の先輩である森生颯真のことを覚えているだろうか。  今日診察してくれるドクターは彼であると、特段隠しているつもりはないのだが、聞かれなかったので話してない。  それでも、帰宅する時はこの晴れない表情に少しでも明るさが戻っているといいのだが……。  颯真ならば大丈夫という信頼感が廉にはあるのだが、それが尚紀にも伝わるといいなと廉は思った。

ともだちにシェアしよう!