208 / 211
閑話(38)
タクシーは中目黒から南下しているのはわかっていた様子だが、纏う空気が少しずつ重くなっているのを廉は感じていた。
「不安?」
「……いえ、大丈夫です」
廉の問いかけに、尚紀は静かに答える。強がりとも思えず、違和感はないので、廉もその先は何も言えない。
……だけど。
尚紀はひたすら廉から視線を逸らし車窓を見つめる。そんな姿を、廉はずっと見ていた。
タクシーは渋滞に巻き込まれることなく、スムーズにみなとみらいにある誠心医科大学横浜病院のエントランスに到着した。
下車して、尚紀は大きな建物を見上げる。横浜のみなとみらいに連れてこられたのが意外だったのか、着いた先が大学病院で驚いているのか。
廉にはわからないが、彼を促して院内に誘う。
さすが。颯真がすべて準備を整えていてくれて、受付からしてスムーズだった。問診票を記入すると、すぐに颯真の声で尚紀の名前が呼ばれた。
思わず少し不安気な表情が漏れ出た尚紀に、廉は彼の背中をさすり励ます。
「緊張しなくても大丈夫。ここで待ってるから行っておいで」
そう促すと、尚紀は頷いて立ち上がる。診察室のドアの前で、彼が信用しているからと念押しするように、こちらを見た。
それに廉は柔らかい視線で頷いて応えた。大丈夫だから、そのドアの向こうで待っているのは尚紀の敵ではないから、安心して気楽に行っておいで。
診察室に入っていく尚紀を見届けて、廉は息を吐いた。ようやく送り出せたという安堵のもの。尚紀の体調をずっと心配していた。颯真から知らされた、番と死別してなおその契約に縛られたまま人生を全うするオメガの厳しい現実に、尚紀の状況が少しずつ近づいているようで、恐怖を感じていたからだ。
早く尚紀を颯真に診せたかったのは、尚紀自身のためでもあり、自分が安堵したいというのもあった。
ようやく尚紀を颯真に引き合わせることができたと、ひと安心だ。体調部分の不安は、颯真に任せれば大丈夫だと思う。
自分に話せない悩みや思いだって、一人で抱えずに専門家に話せればいい。
颯真に聞いてもらって、気持ちも身体も楽になってほしい。そう思って、尚紀を颯真に託したのだ。尚紀にとって、吐露できる相手が自分ではなかったのが少し残念だが、それは役割の違いだと自分の中で納得している。
それよりも。やっておくことがある。
廉は待合ロビーのベンチから少し離れ、スマホを取り出した。
電話帳を探り目当てを見つける。初めてかける電話番号。念の為と連絡先を交わし登録していたのだが、まさか電話をかけることになるとは思わなかった。
通話ボタンをタップし、耳に当てる。用心深い人だし、出てくれるかなと思いつつ、待ち続けることしばらく。繰り返す呼び出し音が途切れ、相手が応答した。
「もしもし?」
相手が応答する。廉ももしもし、と返した。
「お世話になります。江上です」
廉の挨拶に相手は笑った様子。
「貴方からかかってくるとは思わなかったわ」
廉も連絡をとることになるとは思わなかった。黒髪ストレートでボブカットの迫力美女を思い浮かべる。
「お忙しいところすみません、今大丈夫ですか。野上社長」
廉が電話をかけたのは、尚紀が所属するモデル事務所、オフィスニューの社長、野上響子だった。
ともだちにシェアしよう!