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閑話(42)
颯真が言っていた尚紀の発情期はそれからすぐにやって来た。
受診から三日後の早朝に症状が現われ始めた。次の発情期は今週後半というのが颯真の見立てだったらしいが、その正確さに廉は驚いた。
尚紀は、すでに入院の準備も整えて、気持ちの準備もできている様子だった。病院に送ると言ったのに固辞されて、廉はタクシーを呼んで出発を見送ることしかできなかった。
発情期は重いという話だったので、一週間ほどだろうか。退院の目処がついたら連絡が欲しい、迎えにいく、と念を押した。おそらく、尚紀は発情期を自分に見られたくないのだろう。番を亡くし、項に跡が残るオメガにとって、発情期は番との逢瀬のように感じられることもあるという。自分は、まだそこに深く立ち入るべきではないと思いつつも、どうしても尚紀の人生には関わりたいと思った。
待ち合わせは夜八時。
尚紀が発情期で入院中、彼の事務所の社長である野上と会うことになった。先日電話で話した尚紀の過去について、電話では話しにくいこともあるから会って話したいと言われたのだ。
場所は、前回彼女に呼び出された時に使った渋谷のシティホテルのラウンジ。オフィスニューからも近く、廉にとっては職場から自宅方面なので不便ではない。
吹き抜けの天井と大きな窓、さらにその先に庭園が広がっていて開放感があり、気軽に会いやすい場所だった。
「あら、お待たせしてごめんなさい」
そのように言って野上響子は姿を現した。廉も立ち上がって迎える。遅れたといってもほんの五分ほどだ。
いつものように、ダークトーンのスーツに、黒髪のボブカット。極力彩を消したような装いながらも、内から湧き出るような華やかな雰囲気は、彼女自身の華やかさだ。元モデルで華のある顔立ちなのだから仕方がなかろう。この一連のやり取りでさえ、周囲の注目を集めている。
すすっと寄ってきたウエイターにコーヒーを注文し、廉に向き合う。
「あれから、彼の過去はなにか掴んだ?」
「……いえ、まだ」
野上に、尚紀と番であった夏木との関係性を聞いてからというもの、廉はまったく新たな動きを取ってはいなかった。正直に言えば、当初は野上に連絡をした後、すぐに自分の伝を使って、尚紀の過去と夏木との関係性について調べようと思っていたが、気持ちにストップがかかってしまったのだ。
「あら意外。迷ってるの?」
コーヒーがサーブされ、野上が軽く礼を言ってから身を乗り出した。
彼女の様子は少し楽しそうだ。しかし言葉自体には容赦がない。
「………」
廉は野上の質問にあえて答えなかった。
迷っているのか、と聞かれると、迷っているのだと答えるしかない。
「尚紀の他にも番がいたという事実に驚きました。正直、相手のアルファ……夏木氏の行動は理解できません」
廉の率直な言葉に、野上は頷いた。
普通、番がいれば他のオメガを番にしようなんて考えないし、たとえばオメガに請われたとしても番にすることはないだろう。
「そうね。わたしも理解できないわ。たしか、夏木が最初に番にしたのは柊一さん。その後二人を番にしたと聞いて……、そのうちの一人が尚紀だったのよ」
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