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13章(8)
ゆるりと意識が現実に浮上した気がした。颯真の診察と処置を受けてから数時間たったようで、疲れて眠っていたらしい。
気がつけば尚紀は特別室を出て、なぜか、一般病棟にいた。アルファ・オメガ科のオメガ専用の四人部屋は埋まっているようで、それぞれカーテンが引かれて見えない。尚紀はその窓際のベッドにいた。窓から見える黄昏時の夕暮れが、やけに不安な気持ちを掻き立てる。夕日が窓から差し込んで、ベッドのカーテンを紅く染め上げている。そんな静かな室内を、尚紀は見渡した。
ふと、発情期は終わったんだっけと、疑問に思う。
あれ、終わっていないはずだけど……。
そこで急に胸に込み上げてきた胸をつまされるような気持ちに、尚紀は戸惑った。さらに、ふと感じた香りに、身が凍る。
それは自分のものではなく、だけど記憶に触れる香り。もう今は亡き番の香りに触れた気がしたのだ。
夏木。
今思えば実にあっさりとした今生の別れだった。最後は発情期の時。彼は尚紀が正気になるまで番としての役割を果たしてくれたが、最後は顔を合わさず、見送りもなかった。その背中を見かけ、迎えにきた夏木の部下に促されて部屋を出た。
特段会いたいとは思わないが、嫌でも三ヶ月後に再び会って身体を重ねるのだからと、そう思った。
刺されたという報せはそれから半月後。
今まで最後に見た姿も忘れていた。薄情だなと、少し自嘲ぎみに尚紀は思った。
これは半年前に置き去りにした気持ちだ。
柊一を見送り、達也とは連絡を取れない中で、これまで一度も夏木を振り返ることもしてこなかった。
「これまた、ずいぶんと薄情だな、尚紀」
耳元で夏木の声がした。そしてタバコが混じった懐かしい香り。それで思い出す、これは夏木の、番の香りだ。しっくりとくる香りを、尚紀は思わず大きく吸い込む。
「俺のことは忘れたか」
ニヤリと笑った口許が見えた気がして、背筋はわずかに凍った。続いて耳元で声が響く。
「お前は幸せになるんだな」
「そう、僕たちのことは忘れてね」
そこに被った声は……柊一のものだった。
違う、そう尚紀は言いたかったけど、声が出ない。
ふと脳裏を、絶望がよぎる。これまで柊一を失って四ヶ月、自分に精一杯で、廉と気持ちを繋いでからは幸せを享受するのに夢中で、柊一のことを脇に置いてきた。贖罪の気持ちを忘れてはいけないなんて、言っておきながら。
「夏木……」
尚紀は久しぶりに番の名前を呼ぶ。
「尚紀、覚えておけ。お前はシュウを見捨てた」
そうはっきり言われて尚紀は衝撃で身を硬くした。柊一からの言葉は何もなかった。
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