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16章(14)

 尚紀の言葉に、野上は少し意外そうな表情をうかべた。おそらく元気でここまで来たのだから、少しずつ仕事も再開できるだろうと踏んでいたに違いない。 「すみません」    尚紀がそう言ったことで、野上は表情を改めた。 「気にしなくていいわ。少しこちらが先走っていたのかもしれない。庄司からも回復してきていると聞いていたから」  野上と直接話すのが久しぶりでも、尚紀は庄司とは頻繁に連絡を取り合っている。ここしばらくの頻繁の入院も彼女を通して野上まで話入っているはずだ。 「発情期のコントロールはできるようになってきました。信頼できるドクターにも出会えましたし。だけど、これから少し特殊な治療を受ける予定なんです」  この言葉に、野上は本当に驚いた様子。 「守秘義務があって、詳しくはお話できないんですが、しばらく入院が必要で、年明けまでかかる治療のようなんです。だから半年以上お休みすることになるかもしれません」    野上は守秘義務がある治療内容という言葉に、わずかに目を見開いた表情を浮かべたものの、尚紀の説明を聞くに従い、何度か小さく頷いた。 「そう。なんかもう決めたって感じね」  そのように言われて、尚紀は本心を読まれた気がした。読まれて困るものではないのだけど、真っ直ぐな野上の視線に、心の中が完全に見透かされた気持ちになった。  ならば、堂々とした方がいいのかもと、とっさに思う。自分は前を向いている……いや、……自分たちは。 「はい。僕たちにとって必要な一歩なんです」  すると、野上はふっと笑った。 「ふぅん、『僕たち』ね」  野上はあっさり頷いた。尚紀の言葉数が少ない説明でも、なにか察し理解するものがあったのかもと思った。 「半年くらいなんてことないわ。とりあえずエージェント契約はこのまま、復帰後にまた考えましょう」  待っているわ、と野上は言った。 「実は、あなたにっていうオファーがいくつかきているのだけど、それはこちらで処理する」 「すみません……」 「こちらは気にせず、頑張ってらっしゃいな」  野上はそう顔をあげて、尚紀にエールを送ってくれた。  尚紀はその判断に感謝して、深くお辞儀をした。 「社長、ありがとうございます」  すると、野上が「ナオキ」と呼びかけた。 「昔、わたしはあなたの魅力は目だと言ったけど……」  真っ直ぐな視線がふっと和らいだ。 「顔つきが柔らかくなったわね。前よりも余裕が出てきたみたい。その目が引き立つようになったわ」  その言葉は、大きなエールに思えた。 「必ず戻ります」  尚紀はそう約束した。  季節は確実に移ろいを見せていて、仕事の調整などペア・ボンド療法の参加への準備が整い、気持ちが落ち着いてきたら、すでに十一月も半ばになっていた。  朝晩は少し空気が冷たくなり、ベッドから出るのも躊躇いがちになり、足が冷えるのでルームソックスを履くようになった。  街路樹の楓も銀杏も色づき始めていて、季節の歩みを感じる。  だけど、陽の下は暖かくて、空気が澄んでいて、青空の下で散歩するのは気持ちが良い。  治験参加のための入院まであともう少し。  尚紀はそんな平日のある日、中目黒から下り電車に乗って、揺られること三十分。目的があって、みなとみらいまでやってきた。  地下鉄から降りると、色づいた街路樹の隙間から、暖かい陽の光。そして見上げると澄み渡る青空。  変わらないな、と彼があの日見上げていた街並みを、ゆったりと思いを辿るように尚紀は歩き、たどり着いたのは横浜港大さん橋国際客船ターミナル。  柊一が眠る場所だった。

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