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16章(16)
あの日の冬の雪の日の雪の冷たさと、海の波間に消えた花びらの鮮やかさを、尚紀は克明に覚えている。
その数週間前に見た、柊一の遺体の表情はあまり覚えていないのに。
薄情であるという自覚はあった。
事故に遭ったけれど穏やかな表情だった、と荼毘に付された後に庄司から伝えられて、自分の記憶はますます遠くなってしまったのだ。
たぶん、そうであってほしいという願望に似た感情が先行しているのだろうと思う。
すべて自分の都合がいいように記憶も曖昧になってきている。忘れたい気持ちと、忘れてはならないという理性がせめぎ合っているようでもあった。
「シュウさん」
口にして呼んでみる。それは広い空間にすぐに消えてしまうけれど、曖昧な記憶を確かなものとして呼び戻す。
廉との幸せな毎日に浸りすぎて、しばらく柊一の名前さえ口にしていなかったことに気づく。
「シュウさん」
今度は言葉が秋風に溶けた気がした。
ごめんなさい、と言葉にして謝りたいけど、どう謝っていいのか分からなくて、今はまだ口に出せない。
尚紀はバッグから三冊の絵本を取り出す。それは廉の自宅の寝室に飾っていたもの。
今日は、シュウさんに報告があるんです。
尚紀はそう語りかけた。
タツヤの消息がわかりましたよ。
彼、今絵本作家をしているみたいです。調べてみたらいくつか著作も出していて……だけど、あまり表には出てこないし、こちらに連絡はないけれど、それでも元気でやっているみたいです。
尚紀は膝の上でそのうちの一冊を開く。
飛び込んでくるのは、灰色の大きなうさぎの前に描かれた不恰好な誕生日ケーキ。
いちごの赤色が目を惹く。
タイトルは、「三びきのきょうだいのたんじょうび」とあった。
「僕たちが初めて誕生日を祝ったあの日は、タツヤにとって大切な思い出になっているようですよ、シュウさん」
一番小さな身体の茶色いうさぎは、目をキラキラと輝かせている。
中くらいの大きさの白いうさぎはニコニコ笑顔。
一番大きな灰色のうさぎは驚いた表情。
優しさが溢れるシーン。
尚紀の口から想いが溢れた。
「……じゃないと、こんなふうに優しく描いてくれないですよね? タツヤの絵本の中で、僕たちは『兄弟』なんですよ……?」
達也がどうして三人を「うさぎ」として描いたのか。尚紀には少しわかる気がした。
あの時、三人はたしかに肩を寄せ合って生きていたのだ。うさぎのように。
達也の中で、そんなふうにあの頃を思っていた、こんなふうに愛おしい思い出として残っている、と読み取れて、それが尚紀にとって嬉しい。愛おしい。
だから、尚紀は柊一にもこうしてここに伝えにきたのだ。
柊一は、達也が出て行った時、彼には新しい人生をやり直すチャンスがある、と言っていた。
彼の消息を知ることができて、喜んでくれていると思う。
出版社もわかっているので、本来ならすぐにも連絡を取れると思う。
だけど尚紀の中で、そんな風に具体的な話になると立ち止まる。
あの時、柊一と二人で生きていくために彼の存在を切った自分は、どんな顔をして彼と会えばよいのか。分からないのだ。
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