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17章(10)

 大きく呼吸する。  安心できる香りだった。  暖かい陽だまりのような気持ちの良い香り、それが江上廉のフェロモンの香りだと、尚紀は認識していた。春……いや、初夏や夏の爽やかさを感じる香り。 「鋭いな、俺は夏生まれなんだ」  尚紀がそう言うと廉は笑った。本人が認識するには、ホワイトムスクに近い香りだそうだ。夏木はもっと濃厚な、こってりとした香りだったように思うから、この暖かい包容力のある香りが、尚紀は好きだ。 「尚紀っ!!」  香りがふわりと広がって、目の前に廉がいるような錯覚を覚えた。 「廉さん……」  思わず言葉が漏れた。  それほど尚紀が触れた香りは廉のものだった。  先日まで広い背中で、暖かい胸のなかで包まれた愛おしい香り。その香りに触れると尚紀は力が抜けて、すべてを委ねたくなってしまう。  世界の中で一番安心できる、愛おしさが募る。  颯真のフェロモン療法を受けて、だんだんとフェロモンを抑えられるようになって、彼の香りを認識して、これが自分が愛おしいと思う人の香りなのだと自覚した。  これを思い切り吸い込んでもいい。溺れてもいい。好きだと言っていい。その権利を自分は持っている。  一緒に人生を歩むことを約束した、愛くるしい人に思いを馳せる。 「廉さん」  尚紀は胸に込み上げるものがあって、思わず鼻を啜った。  それが異常ととられたのだろう。 「西さん?」  草壁に呼び止められた。 「大丈夫ですか?」  尚紀はゆっくりと目を開けた。  けれど、目の前の彼の姿を確認できない。  世界が潤んで歪んでいる。  ぐすん、と再び鼻を啜った。  顔を起こすと、ほろりと温かいものが頬を伝って手に落ちた。 「廉さぁん……」  人前であることなど、気にしていられなかった。ポロポロと涙を落とした。  どうしようもなく廉が愛おしい。恋しい。会いたい。  胸を締め付けられるような寂しい気持ちが爆発した。  ぐすぐすと涙が止まらない尚紀にタオルを渡してくれた草壁は、しみじみと呟く。 「西さんにとってこの香りは、心底安心できて、恋しいものなんですね」  そう言われて、尚紀はこくこくと頷いた。  ペア・ボンド香の評価は、生体反応は大きな変化を見せなかったが、脳波が大きく揺れ動いたらしい。 「ペア結合反応評価……ペア・ボンド香の評価は私も初めてだったんですが……なるほど。オメガの方のアルファの香りを感じる感覚……いや嗅覚でしょうか。すごいですね」  草壁は、尚紀検査結果を見つめて呟いた。  彼は尚紀に結果を提示し、丁寧に説明してくれた。そしてこう呟いた。 「なるほど、この絆を結び直すんだ……。ペア・ボンド療法は、本当にすごく画期的かもしれない」  彼はそう言って、尚紀に視線を流す。  尚紀はふと項に手を伸ばした。そこにはいつもの傷跡。  寝込んで悪夢を見るほどに苦しんだレムナント香、そして気持ちが溢れ乱れるほどに恋しく思ったペア・ボンド香。この絆が結び直されれば、どれだけ救われるだろう。  それはすぐ先の未来だと尚紀は信じていた。  だけど、今は少し躊躇う気持ちもある。身体は簡単に裏切るからだ。 「番えなかったら、あいつはどう思うんだろうな」  不意に夏木の言葉が脳裏を過り、身が強張る。  ペア・ボンド香に触れて尚紀は察した。もしこれで番えなかったら、自分は廉を拒絶したことにならないだろうか。  先日までは、希望に満ちた幸せな一歩だと思っていた。  だけど、今は怖い。  どうしても怖いのだ。

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