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人を外れる

「……眼の前で起きたことが、現実の、俺の世界であるとは理解出来なかった。 陽まり——、しかも、信じられないことに、陽まりを跳ばしたその車は、一瞬我に返ったように止まったけど、 猛スピードで逃げたんだ。 ナンバー、車種。見たよ。逃すかと思った。そこでも、職業病が染みついていた。自分の娘より先に。——陽まり。早く行かなければと走った。うちは11階の高層階だ。どうしてだ、飛び降りられれば、と悔やんだ。実際、階段を踏んでいるという記憶がない。そして、きっとまだ大丈夫だと、当事者にありがちな、まるで確証を持たない夢想を信じ続けていた」 「……」 「……着いて、俺の腐った似非人道が、機械みたいにまた発動していた。 あのの、容体は。 救助の優先度は。——きっと把握していた。 一瞬で打ち消したけど否定しない。実の娘が斃れているのに。 陽まり。どうしてだろうなあ。どんな軽だろうと減速してようと、大人だってそうだろう、120cmもない子供からすれば、ひとたまりもない、視面を覆い尽くす鉄の怪物だよ。 まだ温かいから大丈夫だ。こんなに温かい。…………ああ。 俺は本当に、役立たずの無能だよ。 よく立派だ、親戚筋でも自慢の、人に沢山褒め囃されたけど、本当に、全く意味のない、人を救うとか口にする資格も微塵もない、芯の底からの、屑だ。 俺が人工呼吸を施して、還って来た人は、一人もいないんだよ」  天川の瞳が、俺に固定したまま動かない。幼い、と言っていいくらい、やはり若い。  そんな彼にこの反吐を叩きつけて、一体俺は、どうしたいんだろう。 「……車種もナンバーも見てたし、目撃者も多かった。犯人は、すぐ割れたよ。警察にも伝手があったし、……隠されてたけど、掴んだ。 ……陽まりを見送って、休暇を出されている間、俺は一人での元に向かった。奴に手が届かなくなる前に、何としても行かなければならなかった。 ただ、見たかった。知りたかった。陽まりを轢いて、逃げた奴が、一体何を考え、果たしてのかと」 「……」 「向かいの駐車場で、車の中から奴を見てたよ。コンビニから出て来た。若い。でも奴は進学も働いてもいない。昼日中から遊び歩いている。その辺一体の地主の息子だ。車を替えている。品のない色に髪を染めた、冴えない奴だった。 もう面が割れているのに、人をひとり轢き殺しているのに、全くそんな危機感も背景も負っていなかった。 ……奴はまたスマフォを覗き込みながら歩いていた。そういう視野が遮断された奴特有の、薄ら寒い笑みを浮かべながら。また『あの世界』だけの住人になっている。 液晶の中だけでは飽き足りなかったように、奴は携帯を耳に当てた。愉快そうな笑いが(こぼ)れる。話しながら、ペットボトルの水を飲み干した。奴の喉が満たされるように蠢めく。 それを見て、俺の身体を問いと破壊衝動が貫いた。 何故? これから、ありとあらゆる希望と未来を受ける筈の陽まりが、何の過失もなく全てを一瞬で奪われて横たわっていたのに、 お前は何故、陽の光のなか、何の憂いもなく『生』を湯水のようにつまらなく垂れ流して享受しながら、 そこに立っているんだ?」  強く握ったハンドルと、踏み込んだアクセルの硬さを覚えている。  凍てついた刀身のような、身体を貫く芯は冷えているのに、心臓は、苛烈なもやが内で高速に加熱して充満し、紅く爆ぜて、飛散していくようだった。 「人を轢いた、という意思も感覚も、疑いなく持っていた。 車から降りて、奴を見降ろした。 正直に     と思ったよ。 こんなに無感情な、人でない神経を自分が持っているんだ、と初めて知った。 血を流して斃れた人間が眼の前に()るのに。 俺がそれを前にして、人を救け起こさず、蘇生を試みなかったのも、初めてだった。 ……天川みたいに吞み込まれて堕ちた訳じゃない。俺は、確固たる自分の意思で、人の道から外れることを選んで、その通りに堕ちたんだ」

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