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それでもめぐる、季節(とき)

*  目を横たえて、その瞼を覆う皮膚が硬化し、日に日に翳を落としていくのを感じる。  あれだけ、日々溌剌と誰かの世話に奔走していた人が、近頃ではこうして日中もベッドで平臥していることが多くなった。  だが、ゆるりと開けた目の、どこか悪戯っぽく宿る輝きは健在で、俺は安堵して同じように笑みを返した。 「…………もう、行って良いわよ」 「すみません、(やす)まりませんよね……」 「良いのよ。……自分が寝つくまで、誰かに見守って貰えるって、最高ね。 この(あたし)が、可笑しいわね。眠るまでママの手を離さない子供の気持ちが、今になって解る気がするわ。 ……誰もいなくなって、ただここで独り横たわっているの、恐怖よ。静寂が支配するの。病舎だから、人が歩く音も殆どしないのよ。……自分で解るわ。今まで当たり前に機能していた細胞が、どんどん砂のように鈍化していくの。目を閉じたらこのまま夜の砂のように、もう沈んで浮かんでこないんじゃないかっていう怖れがすぐ諦めに変わって意識が途絶える。毎晩よ。ここ最近は」  今日の(ひろ)さんは、薄れつつある軽快が特になりを潜め、緩やかだが濃い翳りと澱みがあらわに覗いている。  本当に、(やす)ませた方が良いのかも知れない。  だが天井に向けられた目はまだ語りたげで、それを見守った。 「……でも、感謝しなくちゃいけないわ。真っ当な生き方をしている人達のお陰で、こうして生き永らえさせて貰ってる。これ以上おんぶにだっこは課せられないわ。 もういつでもって思ってるつもりなのに、……中々、来ないのね」 「……まだその時じゃないんですよ。きっと」 「……男に入れこんで、騙されて、精も金も搾りとられて。尽くしてるつもりがこっちもいつの間にかひとを騙して陥れて……。 罪滅ぼしのつもりが、脛に傷持つ男たちの世話をして、塀の中で終わる……。 贅沢なものよ。……悪くない、人生だったわ」 「聞き飽きましたよ。あまり締めの言葉繰り返すと、効力なくなりますよ」  その方が良いかも知れませんけどね。そう笑いかけたが、廣さんの目は、まるで来たるその時が視えているような、色彩を欠いた虚ろを浮かべたままだった。  掛け布の前で、握り合わせるのを途中でやめたような掌に浮かぶ皺と血管が、判然とせず剥き出して色素も濃く沈着している。  少し迷ったが、かぼそさが目から離れなくて、俺は自分の掌をそこへ重ねた。 「……ちょっと。やめてよ。…………(とおる)に叱られるわ」 「手握るくらい大丈夫ですよ。……多分」 「多分て。本当にやめてよ。あの子、大人しそうな顔して大分嫉妬深いわよ。 断言するけど、男の嫉妬って、女のそれより相当根が深いわ。 牝狐は言い過ぎだったかも知れないけど、間違ってはないわね。少しでも(さく)に近寄ろうものなら、小さな娘狐みたいに、尻尾逆立ててじっと見てたわよ。 ……もう、ひとの優しさすら沁みて毒なのよ。近頃じゃ体の水分も枯渇しきって、涙も出てきやしないのよ」  そう言って顔いっぱいに歪ませる廣さんの皺は、確かに苦痛にもとれたが最後には笑っていた。 「謝ります。……これ以上、目の前から何かが零れ落ちていくのは、もう見たくないんです」  掌を離した俺を、しっかりその顔を眺めるように、廣さんは頸を傾けて落ち窪んでもまだ凛が残る眼差しを向けていた。 「……老けたわね」 「そりゃそうですよ。四十もとっくに過ぎてますし」 「男盛りも、そろそろ下り坂よ。……でも、悪くはないわ。あたしは好き」 「有難うございます」 「……詫びは、あんたから入れなさいね。透へは、私は一足先に会いに行くけど、『朔はまだ当分こっちには来れそうにないけど、心配しなくても、イケおじ、どころかイケ(じじい)になって現れるから、楽しみに待ってなさいよ』って、それくらいは伝えてやっていいわ」  季節は(めぐ)る。  天川を喪って、心象の景色も消失して、それがいつ、無彩から時間をかけて滲みの色を取り戻し始めたのか、最早判らない。  それでも季節(とき)は廻る。  春、夏、秋、冬。  ふたりで、共にここで詠んだ景色(こころ)。  色を失おうとも、苦しくとも。もがいて乞おうとも。立ち止まったとしても。  塀の中でも、ひとは変わらず息づいている。  その触れあいを得て、いつしか、少しづつ、 あたたかみと色が、再生されている自分に気づいていた。  廣さんは、もぬけと化した俺の傍に、時折、気づいたら添っていて、自身もそっと涙ぐんだ横顔を背け、時には言葉と掌同時の、厳しい叱咤をくれたり、天川の消失を、息の詰まらない空間で共有してくれた。  気がつけば、十年(ととせ)。  その歳月を俺は振り返る。  日々俺を見守り、激励して、変わらず明朗な働きぶりを見せていた廣さんは、やがて病に臥せるようになった。  そして。そして俺は。  一度死刑判決が下された俺は、妻。家族。昔の同僚(なかま)。会ったこともない俺を支援してくれる人たち。拘置所(ここ)で会う人々の支え。  いつも心の中で無邪気に笑う陽まり。そして、——天川。  決して俺の力ではない。ひとの情。  生きる意志を喪った俺を、揺るぎのないちからが引き戻してくれた。  そのちから、厚いに余りある支援が報われて、三度目の最後の審判で、無期懲役の減刑を得ていた。

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