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「な……っ……」  想いが、解き放たれた気がした。  彼がひめていた、やさしい想い。  俺と天川を繋いでいた、言の魂の緒。  とても、ただただ無垢なことばで。  天川は、想いを押し殺して旅立った訳じゃない。  本当は、ずっと、そうかも知れない。  そう、気づいていた。  彼の物言わぬ、何よりも言葉を語っていた、黒い瞳で。  でも、俺は甘えていた。彼の澄み切った優しさに。  その優しさに、芯から触れるのがおそろしかった。  優しさがあまりにも無垢で、きよらかだったから。  そしてその深くの彼の渇望を埋め、真摯に受け止めて容れることが出来るうつわも、きっと持っていないだろうと。  そう、いつも言い訳にしてごまかしていた。 『久しぶりに俺のなかの疼き、再燃しようとしたんだよ』 『それでも、こんな俺とでも、歌を詠みたいと思いますか?』 『——……朔さん、て呼んでもいい……?』  あの時の、きらめいた魂の緒のように繋いで見せた、瞳差しも。  臆病な俺が、(まばゆ)くて受け止めてやれなかったその想いを、 だけど天川は、こんなにもうつくしく優しい歌にこめて、はにかんだ笑みにくるめて、解き放ってくれた。 「なっ…………、……何な、……だよ…………っ」  心臓を、熱く押しつぶすような情動が喉元から迫り上がってくる。  目の血管を、熱い奔流が押し寄せてきて痛い。  痛いとともに、熱い泉のような塊りがぼろぼろと瞼から湧き上がって、 天川の歌が見えなくなって、それが嫌で、でも抑えきれなくて、目のそれを振り払ってもどんどん溢れてきて霞んで、 その樹を、天川を、腕のなかに抱えこみたいのに出来なくて、天川の歌に指を這わせながら、崩れ落ちそうな脚を支え、俺はまたも傍の幹を力のない腕で打った。   「奥ゆかし……っ、にも、ほどがあるだろっ…………」  あれほど、優しくあたたかさを秘めた歌を贈ってくれたのに、 救いようなく愚かで、何もかも手遅れな俺は、その慎ましさを、詰らずにいられなかった。 『高階さんはそのうち、出られる気がするよ』 『俺は、もう駄目だけどね……』 『そういう、奥ゆかしいのが、好きなの……?』  触れても、いなかったんだ。  ただの、指一本も。  手を伸ばしたい、伸ばそうとしたことは、何度もあった。  冷たい風に身を竦めて眉を顰めている時。  何のために、今生きてるんだろう。  不意に己の内なる闇に向かい合い、空虚な瞳に墜ちている時。  歌が上手く詠めなくて、俺に笑われて膨れている時。  伏せていたのに、その瞳を繋げてきて、安堵したように、微笑んだ時。  いつだって、ささやか想いをその澄んだ瞳であらんかぎりに伝えていたのに。 「馬鹿…………、もう……っ、……本当に、……馬鹿だよ…………っ」  一等に馬鹿なのは、本当に俺だ。  でも、同じくらい彼を責めたくて仕方なかった。  何やってんだよ、もう。  自分を、もっと解き放って、見せてくれて良かったんだ。  模範囚の天川なんかじゃない。想いと字数、あり余る透だろ。  罰なんか、幾らだって受けて構わなかったんだ。  抱きしめてやることくらい、出来たよ。  解っている。繋いだ瞳で満ちたりて、俺の心も優しさに染めてくれたんだ。  俺が、逃げていただけなんだ。  眩い朝陽に染まった、千景の笑顔をうつくしいと思った。彼女の繋いだ手と、ともに歩んで生きたいと願った。  血潮に染まった身体全てを震わせ、声を振り絞る陽まりの生命をうつくしいと思った。どんどん生きる煌めきを見つけていく彼女に、ひとの喜びはこれほどかと知った。  白い頸。浮かぶ黒子。揺れる髪と同じ、何ものも混ざらない深い瞳の水面が揺れた。 『天川(あまがわ)(とおる)です』  怖じた視線。はにかんだ唇。やさしくまっさらな、歌。  透。  名の通り、瞳も、歌も、想いも。何もかも透きとおって、 この世の得がたい、何ものにも代えがたいうつくしい存在がいたことを、俺は知った。  馬鹿みたいに俺の方が怖じて、ろくに呼んでやれなかった、今、最もうつくしいその名前を、 桜の樹に刻まれたその歌が、彼であるかのように、その文字のかたちをなぞりながら、俺は歪んで濡れる頬をふるいたたせて、笑顔を見せた。 「透、ありがとう。 透、ごめん……。ごめん、透…………。 透、透。 ありがとう。ごめん…………、」   彼の歌に、想いに応えたくて、呼び続けたのに俺は崩れ落ちた。  咽び哭いた俺を、頭上の桜はどこまでも厳かで、まだその花の灑涙(さいるい)を降らすことなく、 品格と、気品と。何もののふるえも受け容れる壮麗さで、いつまでも静謐に見守っていた。

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