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深淵へ向かう
面会の頻度は落ちると詫びはしたものの、千景は以降も、夏が盛りを迎え、渇いた爛熟に到る季節でも、思うほどの間断を持たせず拘置所 へ足を運んでくれた。
ああ暑い暑い。差して来た薄墨の日傘の、柄を手持ち無沙汰に指でつまみながら、瀟洒な配色の英字が縫われたハンドタオルで白く潤んだ襟足を扇ぐ。
そういった世俗へ通じた物を目にすると、哀しくも『外』への疼くような希求を感じるものだったが、
今はそれを越す、変わらぬ生にありふれたごく自然な彼女の仕種に、大きな安堵で包まれていた。
「ここではちゃんと、涼取れてるの?」「うん、大丈夫だよ」
週に数回。週に一度。二週に一度。
「身体、つらくない? ……無理しないで」
「うん。大丈夫だから、ここに来てる」
訊くのも浅はかで無益で、答えを用意させるのは、もっと無思慮だと思う。
でも、訊かずにはいられなかった。
どうか、自愛を。自愛だけを第一に考えて欲しい。
そして叶うなら、彼女の中に巣食う毒が、少しでも霧消し得るならばいいと、
透けた窓に重ねた掌 へ、それをこめていた。
逢う頻度が緩やかになっても、その決まりのやり取りを許してくれる、彼女の微笑みとアクリル越しの熱の滲みが、いつも俺の方こそを慰めてくれた。
対面の間隔が開く際は、伝えた通り、代わりのように手紙を寄越してくれた。
近況、治療の一進一退も少し。昔の、同じ時節に過ごした陽まりも交えた楽しい想い出。ごくごく日常の、素朴な発露。
隣に肩を並べ話し掛けてくるように。病に向かう苦しさ辛さは、殆ど感じられなかった。
それがきっと、彼女が『希む』ものなのだと、俺もそれに合わせて、そう信じて甘えて、ごくさり気のない気持ちを心掛けて彼女に語りかける。戯れみたいに、歌も供にして。
顔を見ても、彼女の字を通したこころで見ても、彼女のおかげで、愉しみで心和むやり取りが続いていた。
だが、熱を放出する季節が過ぎて、一年を通し、巡っていた暁の恒星が地へ沈んでいくかのような、内に篭めている生命 、熱を、何処かに閉じようとする、
秋から、やがて冬を迎える。
——誰かと初めて季節を巡っていた時、その先に在る結末 も知らず、来たる冬の広大さ、澄んだ厳格さをも共に過ごす愉しみを想い、心踊らせていた。
けれど今年の冬は、その陰に隠れていた、陰鬱、季節 の鎮まり、日輪が雲間に乞われ、やがて陰 に沈む、
終着へ向かっていくような寂寥を拭うことが出来ず、疎ましい焦燥をひそかに抱えていた。
気が付くと、訪れをなくしていた千景から、一通の封が秋涼の風のように届いた。
入院した。中々、会いには行けないかも。自分の身体、見つめてみる。
いつもは便箋数枚に渡っている朗らかな文面が、この時は一枚で、簡素だった。
手紙、増えると思うよ。でもそう結ぶ千景の、変わらぬ飾り気ない微笑み、こころを想って、
渦巻く煩悶を押し込め、ただ深く、応えるように俺は頷き、封の端を強く握りしめた。
秋も暮れに近づく。寂寥。
重なるように、この頃から千景の手紙に綴られる文面は、彼女の芯に迫るようなものが、つよく滲むようになっていった。
陽まり。陽まりって、本当に可愛い名前だよね。決めさせてくれて有難う。
親馬鹿じゃなく、あの子顔や姿かたち、全部本当に可愛いかったよね。
キュアみたいに、頭の両端てっぺんで二つに結んで、毛先緩く巻いてあげるのが、抜群に可愛いかった。
幼いって思うけど、やっぱりあの子もう立派に女の子で、パパのこと、もう男として見て、試すような真似してたの気付いてた?
やばいって思った。女として。
でも、本当に、本当に可愛い生き物。
寂しくないかな。陽まり そろそろ、寂しくないかな。
ティティもいるけど。
ごめん。 それは、言わないようにしよう。
私達といつも一緒にいるから、言わないようにしようって、約束したんだけど。
近頃、よくそう思うの。
陽まりが産まれた時、立ち会ってくれて有難う。
朔君の仕事は忙しくて大変だから、きっと難しいって思ってたけど、出動した先から、皆に頭下げ通して駆けつけて来てくれたって分かって、嬉しかった。
ガウンの下のスーツ、ぐちゃぐちゃだった。
本当は、いい、要らないって思ってたんだよ。
だって、女としてとても見せられない、壮絶な場面だよ。見せたくなかった。
だけど朔君は、 変わらず私のこと、見てくれたね。
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