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敬礼

 自然と、出立の口上が口をついて出ていた。  俺へ向かう園山の眼が、見護りを経た安堵のようにほそめられる。  礼を尽くすべき存在への、持ち得る敬意が際まで拡がって、澄んだこの蒼空へと還り、溶けて清爽の、空気、ひかり、風となしていくようだった。 「確かに、ここで別離(わかれ)です。貴方に『護られた』世界から俺は()て、忘れていた、そして新しい『この』世界で、また泥に(まみ)れなければならない。 だけど、忘れません。忘れられません。鞭と情熱が篤過ぎて、忘れるつもりなんか、ないです。 …………いつか。もし、どこかでお目にかけるときが来るのなら……。そのときは、ここで見送った甲斐があったと、想える男として現れるつもりでいることを、許してください。 ——長きに渡り、 大変御世話になりました」  そして、45度、ずっと忘れていたと思っていた、 だけどその角度は、伸ばされた俺の爪先の髄にまで染みついていたらしい、 最敬礼、敬いを表する限りの深さの傾斜で、俺はこの澄んだ空に相応しい疾さで(くう)を切り、上体を屈ませた。 「…………また、見つけた」    空気を裂いたつもりが、春は変わらずのどかな風をそよいでいて。  その上から、園山のぽつりとした呟きが降ってきた。 「きっと、俺はこの瞬間を見るために、この仕事をやっている」  穏やかだが、俊敏な涼やかさを失わない園山の声音が、だけどやはりまろやかに続いていて、 俺はそっと上体を直らせて、その貌を瞳に映した。 「——…………」  射るようで、仁と礼。そして彼独特の、意思の確固さに自信の満ち溢れた眼差しが、『俺』そのものを包む。  直立した園山は俺を見据えていて、伸ばされた左腕、上がった右腕と右掌が水平をなし、端正な一線を描いた指は、制帽の庇の端にかざされていた。  彼方に聳える拘置所の門前。どこからか桜の花弁が秀麗に降りおち、濃紺の官服を通って舞い降りてゆき、彼の唇も、その柔白色同様綻んでいた。 「長きに渡り、耐えがたい収監生活、血を吐くようにして、それでも呑みくだすものは尽きぬ苦汁や辛酸、大変なご苦労だったことだろう。 自身の生命を差し出す刑を科せられ、その恐怖に晒されながらも、幾多の哀しみにも遭い、それでも誠実をうしなわずに罪を贖い、いのちと正義を勝ち得た今、この暁を見たこと、感服に値する。 俺には、到底無理だ。 ……天川は、いのちの泉そのものを与えてくれた。 そしてお前も、希望(みらい)への光を見せてくれた、 俺には、どちらも値千金だ。 ひかりと源泉は尽きないことは、その瞳を見れ(あきら)かで、それに俺は、賞賛と誇り、 感謝を禁じえない。 瑣末な一個の身として、——高階(たかしな)(さく)元消防司令補に、上限の敬意を表する」  挙手注目の、敬礼だ。  本来、敬礼は下位の者が『上位』の者へ贈る一般の行為で、同格の者同士でも、掲げられれば互いに"礼"を以て交換し合う。  『答礼』、しないと……。  頭でその対応が示されるのにも、やや時間がかかっていた。  本当に、自分には遠い所作になっていたからだ。  緊張が漲る現場のなか、呼吸のようにそれを行なっていた場所も総べて失われ、 そして俺自身も、一個人としての存在を許されず、ましてや『敬意』を払われる対象などとは、真逆の底面に墜とされていた。  だが、喪くしたと思っていた、(たっと)い感覚が取り戻されていく。  目の前の園山が、受刑者でも番号でもなく、『俺』自身を、看守長の任を今は降ろして、偽りのない"礼"を湛えた眼差しで、 ひとりの人間として、見上げてくれているからだ。  厳しくも、使命感で湧く身体に装衣を纏い、誇りを持って上官や同僚(なかま)たちと交わした際まで伸ばした指の先。  無事を得た子供の小さな瞳と掌で贈られて、この仕事に就いて本当に良かったと、その未来が健やかであることをただ願った。  戯れに陽まりに求められて、目線を合わせてふたりで贈り合い、キッチンのカウンターから見守る千景の顔から笑みが零れた。  感慨に耽っている場合じゃない。  身内にこみ上げて下瞼の奥からも染み出しそうなそれを堪えながら、 礼を表するその人に正対して、最短の距離で右腕を上げ、 指を全て閉じて伸ばし、親指を曲げるような気持ちで人差し指に付け、たなごころを湾曲させないように見せたそのうちから、 解き放つことを許された感情がもう溢れて、俺に掲げてくれた尊い(あかし)と、同じくらいの『応え』を、目と頬は緩んでしまったから、それを補うに足る締めた姿勢で返した。 「…………ったく、少年(こども)みたいな顔して。 また掬われるぞ」 「もう掬われないです」  笑った。  多分、もしかしたら、初めて。  罪という鎖に繋がれた時から、俺という存在理由を喪って。  今、解かれてこの地に再び自分の存在を認められて、 笑った。ただ、『自分』のためだけに、 こころから笑った。

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