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彼の左で

『園山先生』  あの朝、園山(かれ)から聞いた、夢見るように瞳を閉じて、彼の両掌を握り、無垢な唇を色づかせて、最期の言葉を紡ぐ天川の姿は、 目前で息づいているものと想えるくらい、ありありと思い浮かべることが出来た。 『今日は、桜が咲いていますか?』  桜、一緒に見よう。  俺との他愛ない約束を、真摯に胸に抱いて、 "見える"と、誰もとらえられないほどの美しい景色を、彼だけのものにして、 彼だからこそ持ち得た限りない浄らかさと優しさ、尊さに包まれて、 いってしまった。——そう、信じたかった。  にがい哀愁を帯びて微笑む園山の眼に、自身が連れて行った、という負い目のような沈みが滲んでいる気がした。  そうではない。静かにそれへ蓋をするようにして、俺は眼を伏せる。 「…………これから、会いに行かなければならないひとが、沢山います」  いくらだって、見に行ける。これから。  園山から委ねられた天川のいる『場所』を、この胸にしまうようにして押さえて、園山へそう返した。  そうして俺は、俺と天川との約束は、ふたりだけのものにした。  伏せた眼線の先に、園山から向けられた掌の先が見えた。  その腕を辿ると、本当にいつの間にか、揺るぎない威厳と仁、毅然とした(しな)やかさと熱を併せ持つ看守長の貌を身に纏った、男の厳かな微笑みが在って、片掌を差し出されていた。——左手。 「糧にするのは構わないが、での自分は、もう捨てろ。 これを以てお前は、懲役囚、呼称番号1390番じゃない。 犯した罪はその身へ楔のように刻みつけられていくだろう。……生涯。だが、下された刑は解かれた。 ……昔、(から)になって立ち尽くしていたお前に、『自分の感情は捨てろ』と言ったな。 取り戻せ、今。その感情。 これからは、()し殺し続けたお前の感情を、思うまま解き放って、お前を信じた、信じたいと願い続けたたひと達と、存在を許された社会のためだけに生きろ」  この塀の内とは、もはや別離(わかれ)だ。 俺とも。  澄む、と想えるくらい黒く(つよ)い眼差しがひらめいて、硬く結ばれたその意思が示されていた。  右掌の握手は、実際を問わず、『利き手をひとに預ける』万国共有の正統な友好を示す行為だ。  対する左のそれは、"別れ・決別"を意味する。  彼自身は一般を漏れず右利きの筈だ。  どちらの手に依るかなど、意識する者すらもう少ないだろうに、昔からのしきたりを真摯に倣う、子供のような意固地さを感じながら、 彼の意思が、いつだってそれほどの熱を徹して曲がらないものだと、ずっと前から知っている。  眼の前にいる存在は、得がたい、積み重ねられてきた別れがたい縁そのものだ。まぎれもなく。  それでも、差し出されたこの掌を払うことには、代えられなかった。  空気の流れが躊躇いをはらんだのは、一瞬だった。  それを裂いて、彼の左掌を、俺も同じこの左で握った。  俺の指が彼の掌に添うと、力強くそれに応える彼の指が込められる。  俺の掌を揺るぎなく握る、制帽の庇で陰影がなぞるその貌を、名残りの晴れた表情で見下ろすことは、出来なかった。情けないことに。  それでも園山は、その眼をもたげ、(かたち)が整っているから、ともすれば笑んだ風にとられがちな口角を柔和に上げて見せ、 俺の掌を握ったままそっと身を寄せ、まだ残っている俺の迷いと未来(さき)への不安の払拭、そしてこの繋がれた熱を断つ潔さを与えるように、掌同様、右掌で俺の背を篤く叩いた。  最後まで、俺は背を押されるばかりの心許のなさを、崩すことは出来なかった。  そういえば、天川の熱も、俺が(なか)に仕舞っていつまでも大事に遺していたいと願った熱も、受け取ったのはやはりこの左掌だった。  双方の(てのひら)が解かれる。  けれど、脚が地に着いたような明瞭な空気が、全身を静かに巡っていく感覚が満ちる。  彼が与えてくれた。いつまでも、背を押されて見送りの甲斐がない後ろ姿を見せるのを、断じて許したくない。  俺は数歩下がり、伸ばした両掌を腿につけて垂れ、姿勢を正し、目の前のその存在に注目した。 「道を外れた罪を犯し、命を以て贖罪せよと命じられたこの身は、諸先生方の篤い指導のもと、この地へまた息を吹き返すことを赦されました。 なかでも、園山先生……。貴方の叱咤、鞭撻はいつだって妥協を許さず、辛辣を幾度も覚えてきました。だけどそこには、俺の芯を見徹す直向(ひたむ)きな眼があって、弱さに(くずお)れる俺を、いつだってその掌で掬い上げてくれました。 刑務官とはかくあるべきかと、その威光を常に肌で感じてきましたが、ひととして……。ひとりの人として、この地で貴方という存在の巡り合わせを得たのは、俺の宝でした。 生きていることは、辛かった……。喪っていくものが多過ぎて、この腕から零れ落ちていくのをもう知りたくなくて、進みたくなかった。 だけど、その熱は、貴方が繋げてくれた幾つもの熱は、俺の内腑の隅々にまで沁み渡って、 今、生きたいと。生きていかなければならない。まさにこの未来(さき)へ向かうちからと糧、……喪っていったものの分まで。生きたいという渇望を、取り戻してくれたんです」

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